いちじしのぎ

生活から一時凌ぎで逃げては文章を書き、また生活に戻る人間の悲喜交交。あるいは、人生の逃避先「山」にまつわる話。

インフォ疲れ

新型コロナウイルスが無かったらどうなっていただろう。昼食で訪れたタイ料理屋で、食後のコーヒーを啜りながら考えた。

今ごろは五輪一色で、菅総理もまぶたをガン開いて応援メッセージを読み上げていたかもしれない。「暑さに課題を残しました」みたいなニュースの比重も増えそうだ。メドベージェフの抗議ももっと広く響いていたかもしれない。

まあ、現実はそうなってはいない。というか、そもそも「五輪から1年」になるわけだった。忘れてた。五輪は2020年のイベントで、今年はその翌年。何事もない夏、平穏な暑い年。世界はもとの流れに戻っていたはずだった。

さて、現実はそうなってはいない。五輪は目下、開催されている。新型コロナの感染者は過去最大となって、菅総理のまぶたは崩落寸前。あんな目をした砂漠に住むキツネがいましたよね、なんだっけ。

五輪とコロナに付随する情報は数知れない。政治家の不手際、妄言、「誤解をされた方への」謝罪と発言撤回、安心安全。見ているだけでもクラクラする。ソーシャルディスタンス。今では簡単に「距離を取って」と言われていることが多い気がする。NY在住のインフルエンサー、kemioによれば、アメリカでは「6ft(シックスフィート)」と言って、間合いをとってもらうらしい。メートル法にして、約1.8m。1人分ぐらい空けてね!ってことで、ソーシャルなんとかよりも、口を突いて出る感じなんだろうなと推測しちゃう。

 

さまざなインフォがタイムラインに並び、深刻さが深刻さでカバーされてしまう世の中になっている。情報を得るたびに疲れ、誰かが苦しむ中で自分が疲れ、また次の深刻さが来ても慣れ始まってしまう。なんてことだ。また、疲労感のピースが積み上がる。

このインフォ疲れを、どうしていけばいいのだろう。

なんで疲れてしまうのだろう。菅総理の開かない目を毎日見ているからなのか、Twitterの検索画面で、トレンドを見てしまっているからなのか。なんでだろう。

ああでもないこうでもないと思案していて、気づいた。見てしまっている状況が、そもそもある。小さい頃から居間にあったテレビはそうして情報を得る機械だった。番組は見る側が加工できない。今でこそ、Twitterで特定のハッシュタグをつけた投稿が画面に流れることはあるけれど、画面のはじの方で2秒ぐらい存在して、次のやつに押し出され、スワイプして消える。それでおしまい。

情報に働きかけていくことが、生活に根付いていない。もっと、取りに行った方が良くないか?

ただ、そうなると偏る。知ることには偏りがあり、さまざまな場面で間違う素になる。そのリスクを常に警戒していないとならない。ただ、偏りがあることを教わる機会がどれだけあるか。探り探り、他の人と擦り合わせている。

偏りながら、取りに行く。こうすれば、インフォで疲れないんじゃないか。少なくとも、疲労感を「充実感」と捉えることができる気がする。コーヒーを一気にすすり、お会計。真夏の空をかけて仕事に戻った。ほんと難儀な時代に生きてるよね、ウチら。