いちじしのぎ

生活から一時凌ぎで逃げては文章を書き、また生活に戻る人間の悲喜交交。あるいは、人生の逃避先「山」にまつわる話。

山と鹿

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対向車線の路肩で、鹿1匹が倒れて死んでいた。

小柄だったから、たぶんメス。おそらく車と正面からぶつかった。血や臓器が飛び散っているのではなかった。ただ、こちらに頭を向けて、横たわっていた。

鹿の鳴き声が甲高いというのを、登山を始めてから知った。鹿といえば、群れをなして実家の牧草だのを食べに来る「害獣」とみなしていたし、軽トラックのハイビームで追い払うだけの存在だったから、鳴き声を聞くなんてことはなかった。

群馬県桐生市にある赤城山に、東側の利休森林公園から入ってぐるっと一周する登山計画を立て、登山口に向かっている道中だった。公園には朝6時半ごろに到着し、園内の石道をゆるやかに登って、旧赤城銅鉄のホーム駅から山に入った。

入山後すぐ、100メートルほど先を、3匹の鹿が右から左に通り過ぎた。子どもぐらいの大きさ。沢の方へ駆けて行った。またしばらく歩いていると、頭上に気配を感じた。見上げると、また2匹いた。そのうち1匹はこちらが「おーーー」と大声を出すとすぐに逃げたが、別の1匹はじっと動かずにこちらを見ていた。

登山中、鹿に会うことは初めてではなかった。日光白根山に登った時も、片品村の方に降りた時に3匹見たことがある。だが「見られている」という感じを初めて受けた。そこで、ここに来るまでに見た死んだ鹿のことを思い出した。

朝9時までに雨が本降りになってしまい、この日は予定していた工程を諦めた。目印を視認しにくくなるし、ルートがわかりにくい箇所がしばしばあった。駒ケ岳から続く稜線をややペースをあげて駆け下りた。鹿には会わなかった。

帰り道。鹿は自治体に処理されることなく、冷たい雨を受けながらまだ横たわっていた。目の前の車がブレーキランプを踏みながらセンターラインを越えて右に避けていく。通り過ぎるときに、顔が見えた。まぶたは閉じていた。安らかというより、無念そうだった。

人だったら「ひき逃げ」になるのに、野生動物だったらそうはならない。誰かいつこの鹿と激突したのか、あるいは別の死因があったのか。定かではないにせよ、誰にも弔われないこいつはどうしたらいいのだろうと考えた。直後、目があった1匹の鹿が頭に思い浮かんだ。あいつに責め立てられているような気がした。

帰宅して記録用に撮った写真を見返した後、インスタを開いてみたら、長野県の北アルプスから連なる連峰を美しく捉えた写真が次々に表示された。

「山好きとつながりたい」「登山ファッション」「山フォト」だの様々なハッシュタグをつけて投稿している人たちがいた。なんだか遠い世界のように感じた。その後すぐ、フォロワーから山関係の人たちを全員アンフォローした。もう見たくないし、見る必要がないと思った。

職業上、人や動物の死と関わることが多いし、登山関係のテーマにも関わっているからなのかもしれないけれど、あまりにも、生きて登山できるのが当たり前、あたかも絶景が何事もなく待ち構えているレジャーである、みたいな投稿がファンタジーのように思えた。

実際に山に入ればこういう人たちばかりでないことはすぐにわかるが、登山道の真ん中で急に立ち止まり動画を取り出す人はいるし、ドローンを近くで飛ばしてブンブン言わせている人はいる。確実にいる。そういう人たちの積み上げが、インスタに広がっている色あざやかな景色の一部を作っている。

途中で立ち寄った自販機だけが置いてある店で、自動販売されたうどんの熱いだし汁をすすっている時に、自分はああはならないでいたいと思った。

銅鉄の残骸が残る森で暮らす1匹の鹿と、道路横に無力に横たわる1匹の鹿を覚えておく。この2匹を忘れてしまったら、もう山に登る資格はない。鹿からしたら私は野生の人間だ。彼らよりも、よっぽど無力な存在だ。ただ山道を歩き、景色を見て、風を感じて、沢の音を聞いていこうと思い直した。