いちじしのぎ

生活から一時凌ぎで逃げては文章を書き、また生活に戻る人間の悲喜交交。あるいは、人生の逃避先「山」にまつわる話。

山形へ

白神山地のブナ林。けっこう雨が降っていたのに、そんなに雨粒が落ちてこないの不思議だった。

ズッキーニを輪切りにして、熱しておいた小鍋に入れる。オリーブオイルを敷いて表面に色がつくまで炒める。けっこう前にIKEAで買っておいたエプロンをして。油が少し手にはねた。

 

今週末、ひとりで山形に行ってくる。

 

本当は南アルプスに行く予定を立てていたし、なんなら、いつも一緒の人にも声をかけようと思っていた。振り返れば、この半年間は常に人と歩いていた。のしのし素早くある時も、疲れが足元でおぼつかない時も覚えている。うつくしいねと何度も声に出した。いつからか、山に入る人を、身内のように感じるようになった。

 

その傍らでは、身内になりそうな人と距離ができた。その後で、好きになれる対象の差に、絶対的な断絶を経験して、心が折れかける体験もした。手が届きようがないことを思い知るとどうなるかと言えば、涙が出てこなくなるのだと学んだ。白神山地はそうした精神状態を一度故郷に預け、真夜中に家路を経って向かった旅の途中、雨の中、出向いた場所だった。

 

出羽三山に行く。それも4日かけて。通常なら素早く回ろうとするだろうし、できる限り何かを詰め込もうとするのだろうけど、今回はそうはしない。あえて、そうはしない。大朝日岳の麓で一夜を越し、早朝、出羽三山神社を目指す。精進料理を食べ、月山に登る。温泉宿で休む。その次の日に、湯殿山神社に行く。この3座をめぐるのを「生まれ変わりの旅」というらしい。

ぴったりだと感じた。

私にはもう、カードが無い。5月末から、そんな気がしている。もうどの手札を切っていいか、わからない。考えようにも、辛さが先行して、脳みそが働かない。そんな状態が続いてる感じがする。どこかでストップがかかってしまう。何かが、つかえている。

しんどさには、さまざまな形態があるけれど、今回のこれは、結構深いところで、いろいろなものを失わないとならないような気がしている。ただ、それができずにいる。踏ん切りがつかない。つけられたとすれば、今住んでいる土地を去る必要がある。

 

なんて具体的ではないのだろう。

現実の誰それが関わっている問題のはずなのに、要は自分の問題なのだとしまい込みたくなる。ろくなことがない。帰結も想像がつく。

そうしたろくでなさを抱えたまま、むかしむかしの人たちの精神を感じに行く。車の助手席に重みを感じることはない旅だ。久しい感覚がある。

旅の間、4回の記録を取るつもりでいる。よかったら読んでくださいな。