いちじしのぎ

生活から一時凌ぎで逃げては文章を書き、また生活に戻る人間の悲喜交交。あるいは、人生の逃避先「山」にまつわる話。

短い旅

引き波

 

 正午を少し過ぎてしまったのを後悔したけれど、結果的にはあまり大差がなかった。数年ぶりに来た大洗は、以前よりも車が少ないように感じた。
 目当ての店は海沿いにあった。坂道の途中にある大洗磯前神社の駐車場に車を置き、潮風を浴びながら坂道をそろそろと降りる。店前には数人の人だかり。店に入ってすぐにあった名前の記入欄を見ると、ざっと3組は待たされていた。名前を書き、海を見に行くことにした。


 家を出るときには曇りだったのに、大洗は穏やかに晴れていた。南から風が吹き、潮の香りが届く。靴を濡らさずにどこまで海側に歩み寄れるかの遊びをする子どもらが数人、波打ち際を駈けている。ノースフェイスの厚いダウンに身を包んだ彼氏を連れた彼女も何人かあった。
 太平洋は日本海に比べて色が濃い気がするのに、この日は緑がかった青で、薄く感じられた。冬だからか、色が染まり切っていない。止まっている。数枚写真を撮り、店内の待合に腰かけた。


 通されたのは海の見える座敷だった。鳥居に波が打ち寄せる姿を横目に、刺身定食、白子ポン酢、あんきもを頼む。足を崩して、少しだけ開いた窓から海の音を聞いた。


 海に来ると穏やかになるのは、今回でほぼ実証された。うわついていると自覚があるとき、私は水の流れがある場所を欲する。とても大きな流れ。湖、海。耳から直に入ってくる石ころが擦れ合う音や、波の低い音を体に通していく。


 マグロ、タイ、タコ、イカ。鮮度が高いことを、歯ごたえと粘度で知る。サクサクする白身。ねっとりといつまでも切れないイカ。薄い醤油。わさびは節度ある量だけ乗せる。潮の音がする。目をつむって、口を動かす。


 現状に呼吸困難になっていたのだなと、石蓴の吸い物で休憩しながら考えた。息が吸えていなかったか、過呼吸になっていた。環境や仕事に。あまりに進めすぎていて、休憩をしてこなかったのかも知れない。休むのがへたくそなのか。この日が必要だったのか。それは分からない。
 食べ終えた後で、海岸をまた歩いた。日が落ちて、海が橙色になっていく。浜では石ころが擦れる音が不規則に響いていて、時折、岩に打ち付ける波から低い音が聞こえた。
 短い林の中を抜けて、神社にお参りに行った。海に降りる前に立ち寄ったが本殿があまりに混んでいて一度避けた。つつじが咲く散策路。小高い松の間を海が満たしている。さらさらと葉が揺れる音がする。木々の背の高いところが橙色になっている。冬はこうした色も薄いな。山に出かけたくなった。 
 車に戻り、エンジンをかけた。いつになく夕陽がはっきり見える。港の町並みはいいな。辺りが暗くなると同時に、町も眠る支度をしているようだ。

大洗のインターをくぐる。西の空の橙色はだんだんと濃く、暗くなった。今日の日を迎えられて良かった。海を背に、山の間をぬう。車窓の頭上には、丸い月が光っていた。