いちじしのぎ

生活から一時凌ぎで逃げては文章を書き、また生活に戻る人間の悲喜交交。あるいは、人生の逃避先「山」にまつわる話。

影のない人

気力が底をついて有楽町で電車を待っていたのが3日前だとは。けっこう回復した。よくやった、自分。

日曜日は山に行こうと思っていたが、鼻風邪が治らなかったから止めた。遅くに起きて、土曜の晩に見つけた新江古田のヘアサロンで髪を切った。いい天気だった。

お世辞にも愛想があるとは言えない女性美容師が、カウンセリング抜きにばっさばっさと切り進めるのがだんだん嫌になった午後。シャンプー後のマッサージが早く終わってほしすぎてたまらなかった。

「普段はオイルとワックスですか?ならオイルのあるハードワックスの方がパサつかないし、楽ですよ」。私美容師ですから助言が10分に一度ある苦しみに耐え、会計後に書いて欲しいと頼まれたカルテには名前だけをサッと殴り書くに止めた。店のカードとその人の名刺をもらったが、大江戸線の駅のホームで破いてしまった。

 

練馬に降りると、春の風がそよいでいた。まわり道をし、その途中にあるパン屋によって帰ることにしたので環状線の淵を歩いていく。感じのいいヘアサロンを見つけた。ネットで調べたら、さっきの店より安い。なんだ、ここにすればよかった。

パン屋は人気らしく、バゲッドが数本余っているだけだった。ハーブソーセージのドッグと小さいバゲットで500円。公園を抜け、家路に着いた。コーヒーが切れていたのに帰った後に気がついた。

気ままだ。自分の欲しいものを触って買う選択肢の多さは、都心暮らしの特権だなと思う。このところ、ネットで服を買うのに連続して失敗しておりやるせなくなっていたが、対策は簡単なことだった。見に行けばいい。それだけだった。

 

すごく雑に思った点をまとめておきたいのだが、私は栃木的なものを「汗水たらして汗かいて真面目に一社で働き続ける。文句は言わない。アートとか知らない、実際食えない」と捉えて、都会的はものはこれに対置されるものだと思い込んでる節がある。

それは呪いのようにあったし、実家に帰るたびに母から常々言われ続けてその効力を増していった。良い悪いの次元を見下ろすようなところにこの価値観はあって、なかなかに、厄介だなと感じる。

そうは言っても、それでもなお、母はおそらく自分のことを大切にしているのも感じる。これは母親のエゴではなく、食べさせるという一点に集約されうるものだ。自分にはわからない。その価値観しかない諦めが、その裏側にあるような。

 

今月、仕事以外の場面で、価値観が合わないのがストレスの状況にさらされていた時があり、母のこれを考えた。お互いが考えうる重視したいこと、物事の細部にわたる部分への判断が織り込まれた世界観がぶつかり合う。その時、私への、私から当人への、何に愛情が現れるのかと考えさせられた出来事だった。

結果的に、私は「分かり合えなくてもなお」といった母から感じる超越性を、感知することができなかった。当人の前に私が居る必要がないとシャッターを閉めてしまった。

Lady GAGAを聴く。Dance In The Dark。影のないあの人は暗闇の中では踊れないのだろうな。

わからないけど、それを語り合う態度はある。ばっさりと切り捨てるあの美容師のような人間になるよりも、私は母のような、相手と異なる価値観があることをわかりながらも、自分にはそれしかないと戸惑いながらも、言葉を紡ぐ人でありたい。

価値観を異にして育ち、また暮らす場所もそういう判断の裏付けになっているのを改めて抱きしめる。そういう余裕ができたよかった。いい週末だったみたいだ。