何度も見たがれ場を抜けていく。稜線に向かってまっすぐに吹いてくる風を肌で受け止めている。那須の山々。茶臼岳には登らない。
地元では「那須岳」という言い方はしない。茶臼岳と朝日岳と呼び名を分ける。ここに山域の最も奥にある「三本槍岳」を加えたものが那須岳だけれども、そもそも、その呼び名で呼ばない。
県営の駐車場に車を停め、茶臼と朝日の分岐となる避難小屋まではコースタイムで40分ほどだが、正味20分で行く。最初がややきついだけで、小屋跡ポイントを越えればあとは傾斜が緩まるからだ。
風は大概強く吹いていて、穏やかな晴れの天気が得にくい。この日も多分に漏れず、午後になっても風は強かった。がれ場を抜けた先の熊見尾根をさらに奥へ。風を受け流し、秋のような雲が広がる空を仰ぎながら、足を進める。
那須の山に登る時だけの感覚がある。上り下りと歩を進めるごとに気持ちは凪いでいき、触覚が鋭くなるような感じがする。
山では大概誰かのことを考えている。好きな人、嫌いになった人、地元までを一緒に暮らした人、登山客に似ている人がいたら、その人のこと。
だが、こと茶臼岳に関しては、亡くなった人のことを思わざるを得ないのだ。ここは日本で最も被害が大きかった雪崩事故が起きた山域でだからだ。
亡くなったのは母校の後輩たち7人と、教師1人。昨年まで教師は同い年だった。おおかたの雪が溶け、チャコールの山肌が露出して7年目の春だ。私はひとつ歳をとり、犠牲者の誰より長く生き始めた。
悲しみや喪失の語りに終止符は打たれない。想像を助けるための比喩を多く想起しながら、到達できようのない中心の周りを、山を歩きながらぐるぐると回っている。
清水平には雪がほとんど残っておらず、木道を歩き始めたころには風も穏やかになっていた。無印良品の抹茶バウムを取り出して食べる。カラスが二羽、羽を休めている。
この台地を抜けて三本槍岳に行く登山者はこの時期にはまだ多くない。GWも初日、那須はこれから人を多く蓄えていくのだろうが、気配だけが漂っているばかりだった。それでいい。騒がしいのは嫌いだ。
ガスが張り出す前に山頂に立つ。昨年の残雪期に登った際には見えなかった福島の方が見える。あいつは元気にやっているだろうか。他人のことばかりが思い浮かぶ。しばし写真を撮った後で、来た道を後にした。
台地の道はなだらかで、背にしてきた朝日岳が視界に入る。風はまだ穏やかだった。ザックを置き、背中に風を通す。午後3時を過ぎ、登山者の数もまばらになっている。
存在を感じるとか、霊的な何かがどうだとかいう話ではなく、ただ、そういう事実があったことを口に入れて歩く。それとは別に自分の中には、解決できないわだかまりが残っていて歩くのと同時に、落とすなり飛ばすなりしていく。
昨年の今頃は中禅寺湖の湖畔を歩いていて、遅咲きの山桜があった浜でボーッとしていた。
当時あった嫌悪と共に今度しばらく生活しなくてはならない絶望感と、うやうやしさなんて一歳なくただ咲いている桜のギャップが受け止めきれないものではあったのに、浜に寄せていた波の音が不規則で、水に流してしまえるものかどうか、検討してみていたのだった。無茶な話ではあったが。
あの時にあった嫌悪は私に取り込まれ、当時の正気を失った。西陽に照らされる茶臼岳を捉えると、その時間を実感するとともに、さらに今後が意識された。山に登ることはいいことだ。気力が戻ってくるのを感じた。
駐車場まで駆け降り、帰りに事故現場近くを歩いた。彼らが見た視線を重ねると、同じような駆動をしたのではないかと、呼吸や関節の負荷を感じてみたりした。また春が来た。「あれから別の人生を歩んでいるようだ」と言った人の人生が、また歳をとる。
如何ともし難い時間が織り込まれていく。いつも渋滞する交差点を右に曲がり、実家を目指す。寄り道はしなかった。家の前に車を駐めると、父が私を出迎えた。