標識に反応する。「あ、あの人の名前だ」。
次に何を思い浮かべるかは、その人によって異なる。目の前の少し上を見て思い出を探すことがあれば、助手席に目をやる時もある。ついこの間出くわした時は、後者だった。
宇多田ヒカルの「虹色バス」が好きだとは前にも書いたはずで、こういう時、この曲が頭によぎる。
彼女の曲は初期のfor youで聴き方が示されていて、つまり、ヘッドフォンをして人混みに紛れると自分が消えてしまったんじゃないかと思う時に聴くのだ。助手席に誰もいないのではなく、この世界から私が消えてしまったから、誰もいない。足音さえ、消してくれるような音楽。
虹色バスで私を迎えに来て。「誰もいない世界へ、私を連れて行って」。
登山からの帰り道、どこかに寄るのを愛している。
ひとりでいる時は、コンビニで腹の足しになるものを買おうだの、道の駅に寄ろうだのと思う。ふたりでいる時は、何を食べに行くかの話になる。愛しいなと思う。
山の中では孤独だ。いくら背中を追いかけていようが、他に登山者がいようが、体力や目的地が各々違う。そもそも生きる目的だのキャリアパスだのは各々だ。何も山に限った話でないが、滑落や遭難がリアルな事象となる山の中では、個々人の輪郭が際立つ。
それを思い知らされた後、食べるのだ。同じものを、あるいは、同じ店で。
それがなくなるのは嫌だなあと思う。その瞬間を諦めろと言われたら、全力で駄々をこねるだろう。
私には未練がある。だから、虹色バスが向かう「誰もいない世界」は絵空事として存在できる。消えてしまいたい欲望に駆られることがあろうと、それは未練によって引き戻される。
元の生活に、誰かがいる世界に帰って来れているのは、いつまでも煮え切らない心の有り様のおかげだとして、あまりこういうのを煙たがらないで生きていたい。