過密インサイドヘッド

某アニメ映画のアレでは収まらないあれやこれやをネットの海へ放り投げ

土を捏ねる

身に覚えのない宅急便お届けの案内が来ると、余計なサブスクでも生きていたかなどと訝しむのが常である。なれど、そうでないと判別した時、さらには時が経ちすぎてちょっと忘れてたわぐらいの物であれば、口角上がってニッコリ、受け取りが楽しみになるものだ。

毎年、誕生日になると何かを贈らせてもらっている後輩がいて、去年のそれは陶芸体験だった。

これまで贈らせてもらっていたのはモノであり、コトではなかった。顔を合わせるのは年に数回、さらには歳も離れているとあって「今年どうしようかなーー何もらったら嬉しいかね」と、その人本人ではなくて、職場の同僚と確かタイ料理を食べながら相談をしたところで「陶芸してくれば?」との回答を得た私は即座に脳内でシミュレーションを構築、検証を完了、「いいじゃねぇか…」と、したり顔でアゾビューを開くのにかけた時間は、都内の地下鉄をして2駅ほどの移動にかかるそれだったと思う。

土を捏ねるというのは、特別なイベントである。なにぶん私的に。

過去、好きだったヤツが恋人をつくり、私という人間と遊び散らかしていたのに恋人をつくり、シクリシクリとこの先の人生ずっと黄昏時なんだワ、と世を憂いで忙しなかったとき、私は土をこねた。

つくりたかったのはビアマグで、それはそれはデカい、飲むための道具を欲した。ビールを飲み散らかしたいなどの凡庸な理由では黄昏れどきが戻りもしなければ進みもしない。清濁合わせ飲むための、今後、この器を使うたびに今の私を思い出すように、さまざまな感情を一度に放り投げてしまえるほどに大きく、手に馴染む器を求めたのだ。

さてその際は、陶芸体験にあるまじき集中力で周囲のカップルの声を虚空へと追いやり、私の元にターキッシュブルーの無骨なビアマグがやってきた。以来、私はその器が生活の相棒になった。

そういうわけで陶芸に対して意味深げなコンテクストを用意しがちな私であるからして、後輩と陶芸体験の時を過ごすことには一抹のためらいが生じていたのは確かだ。「重たくねぇかな?」「うちは全然そうは思わないけどなー」。生春巻きを平らげる間に、同僚とそんな話もした。

後輩は後輩で思うところもあるだろうし、詮索しようにも他人の心の裏なぞ知る由もなくということで、私は意気揚々と2人分の申し込みと払い込みを済ませ、当日まで仕事をし、後輩と久しぶりに会い、車内でお互いのためのお喋りをして、丸い土の鎮座するろくろの前に腰をおろした。

 

けだし、物事の思い出というのは、結局何を指してそう呼んでいるのかと言えば、結局は断片的なシーンの繋ぎ合わせである。

 

一連の体験は私の車を停めた後輩の家に送り返してもらうで幕引きするのだけれど、その過程で覚えていることは、白状するが、断片的だ。土を捏ねているときといえば、ほぼ真上から、同心円上に伸び広がっていくマンダラのような塊を見つめている静止画のようなイメージが残るばかり。実際、手持ちのカメラで撮影をほとんどせずに喋くりに費やしてしまったから、思い出の代名詞になるようなフォトグラフィーがほとんどない。その日の終わりに後輩がすぐさまアルバムをLINEにつくり、こちらを見向きもしない私の作陶のありさまをパシャパシャやっていた器用さに仰天、まめまめしい配慮に愛らしさを覚えながら、カメラに一瞥をくれて、はぁと項垂れたものである。

さて、では一連の思い出をなぞるための私メイドの素材がないかと言われるとそうではなくて、私自身のなかにあるシーンはあり、それらは未だ熱をもち、口角を上げさせる。つくった花瓶を焼成に出すかどうかヤキモキしている時の顔つきであるとか、コンビニであったかい紅茶を買って渡すだのしたときとか。なぜだかはわからない。名前のつかない場面がたくさん、名前がつきそうな場面の間に挟み込まれていて、それらに満たされる私の部分があるのだ。

そうした思い出を引き興してはニッコリ、な作品たちが実に4カ月を経て、私自身の誕生日が近くなってようやく、当初訝しんだ荷物として届いたのだった。

いろんなものを食べ尽くせるようにとビアマグと同理論でこさえたベージュ色のデカい平皿に、豚汁専用の汁椀、何か枝物をいけようかと余った土でこしらえた一輪挿し。今回は誰のことも恨まず、誰のことも不安がらず、ただ自分と後輩に贈るコトとモノとして形になった、なんて書いてしまうと深淵なる意味を見出しそうにもなろうところ、軽やかにそれらを感じることに努めたいと思う。断片的で、だからこそ愛くるしい思い出たちと一緒に。

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【検証】「2025年にかなえる25のこと」はかなったのか

年始というのは、多くの人がたとえどんなものを積み残してきたかに関係なく、多かれ少なかれフレッシュな気持ちになり、あるいはさせられ、何らかの目標を設定してはさらに浮かれるものである。

真面目な人であれ、そうでない人であれ、この年末年始の空気感のようなものを借りようとする。私もその一人だ。安心してほしい。ただの、皮肉屋ではない。そっち側である。

さて、その空気にほだされて描いた今年2025年の目標を、私自身のブログで発見(つまり忘れていた)、その検証をさせていただく。私はこの1年、どうだったのか。月ごとの長い記事は長い記事に刻み込んでいるので、それはまた別途。午年の一年を颯爽と駆け抜けられるか。足元を見るところから、始めたい。

2025年に設定した「かなえること25」

1. 朝6:30に起きる習慣のもとで生きる

【未達成】おい!幸先が悪い。クラウチングスタートで、後ろ足がぬかるみに取られて顔面をスタートラインの白線の上にぶちまけるぐらい悪い。朝6:30に何があるというのか、この当時の私は何を期待していたというのか。

実際、朝6:30にある余白、何もしなくてもよい時間というのが、私はいま少し怖い。というのは立て込んでいる「やらなくてはいけない業務」が多く、それに切迫しているからなのだが、そういうマインドが濃淡あれど常にある環境である、というのを直視しないと、この習慣とは手を取り合えなさそうだ。要再考ではあるものの、朝は気分がいいのだから、これは別の形で持ち越しだ。とほほ。

 

2. 理想の朝ごはんに出合う

【達成!】達成である。朝ごはんは今年、私の定型が決まった。ひとりで静岡の山奥、北側のとんがっている地方の山を旅したとき、帰りに立ち寄った温泉施設にそれはあった。飯碗である。ざらりとした焼き締めの器を迎えて以降、朝飯は定型化した。

白飯、おかず1,2品、緑茶。これである。栄養バランスを気にしてもっと手をかけるべきなのだろうが、朝からコーヒー味のプロテインにさらにコーヒーをぶちまけて朝飯と呼称していた私はもういない。朝ごはんを食べていない時の、やる気のただ下がりとイライラの急上昇には、もうご退場願った。素晴らしい習慣を手に入れた。静岡万歳。


3. 1日15分の筋トレ

【達成。ただし別の形で】チョコザップを契約し、文字通りちょこちょこ通うようになってから、体に気を配るようになれた気がする。ゴリゴリのマッチョになって、セックスアピールをむんむんしたいわけではないから、チョコザップは本当にちょうどいい。人間がわずかに頑張りを見せる空間だからだ。ちょこっとずつを継続する習慣は継続したい。これを書いたあとも、体を動かしにいく。

 

4. できるだけ毎週日曜夜、銭湯にいく

【未達成だが、別にそれでいい】当時は家から車で10分の銭湯に激ハマりしていたので、こう書いたのだろうが、家の入浴剤にこだわればよいと分かってこれは目標から取り下げである。なんなら、お風呂で毎晩歌唱することを課しているので、私にはそぐわない。

時たま訪れる「何もかも洗い流してしまえ」という傍若無人モードと、「知らない誰かの裸体に囲まれてあたかも存在しないような雰囲気を味わいたい」という世捨て仙人モードの双方を手懐けるために行くことはあろう。これはだから、その時を見ればいい。

 

5. サウナで整った状態を体感する

【整わなくていい。未達でOK】何度試しても、サウナが体に合わない。髪の毛はカラっと水分が抜けるし、肌はシワシワになる。ミストサウナがーと言われるが、そこまでしてサウナに近寄ろうとも思えない。私がいちばん好きなのは「炭酸泉」。たとえ恋人がサウナ好きであっても、私は炭酸泉に浸からせていただきます。

 

6. 週2回は家で晩ご飯をつくり、たべる

【やや達成】晩ご飯をつくるというのは、私にとって一部セラピーの意味を持つ。家のことをオーガナイズできている状態は、生活の感触を取り戻させるからだ。火を扱い、なんらかの料理をして、洗いものをして片付ける。精神状態のいかんによって、この一連の動作で自己が整ってくる。

ここでふと、自己有用感なるワードが頭に思い起こされるのだが、クソだなと思う。有用である物差しを自身に持てと思う。誰かにとって役立てる私は重要だが、それが結果として「自身のオールを他人に預けること」になってはいけないと思うからだ。中島みゆきを聞け。「お前が消えて喜ぶ者にお前のオールを任せるな」である。船は自分で漕げ。誰かにとって役立てることは大事だが、そればかりを求めて生きるな、である。尺度はあくまで自分に持てだ。

 

7. 自分自身について考える時間を1日のなかで必ず持つ

【達成】これについては1日で必ずとは言い難いが、その準備は常にしていた。デスクの上では手帳を常に広げていて、何か考えが浮かぶと日付と合わせてメモに残していた。それにおいては、今年も和気文具さんの手帳をお迎えして、がっつり使っている。

 

8. 5,000円以上、かつ日用品でないものの買い物は家計簿と相談する

【未達成!】いやーーー買っちまっていたなあ。これは、予算設定を見直した方がいいのかも。要は、あらかじめ「衝動買い」をできる余白を作っておく、ということだ。服、コスメ、食事の3つがこれに該当するだろう。学びが多い目標だな、これは。

 

9. 貯蓄用の口座を新しくつくる

【未達成!!】銀行の類が平日にしかやっていない。私が仕事を終えて煌々と輝く東京タワーを背にしたあとでは、さっさと窓口は閉まっている。貯蓄については本気出して考えていかねばならない。生活を一度スケールダウンさせることだな。今はやや膨れすぎている。

 

10. 新しい車用に積み立てをはじめる

【未達成!!!】新しい車どころか、まだ乗ってやるからな!と車検代を支払ったばかりである。この目標を思い出すころには自動車税の取り立てがあるだろうし、次の車検までにどうにかすることにしよう...。

 

11. 新旧問わず、映画を少なくとも50本は観る

【36/50で達成】少なくとも50本ってけっこう難しいじゃん!理由は2つある。

ひとつ、映画館という空間で観るものが「映画」であると最近は思うから。隣の知らない人が啜り泣いていることもあれば、彼の肩に頭を落とす人もいる。これぞ映画。

ふたつ、サブスクの類で家で観るのは、まったく別の体験で、映画を観た感じが薄いと気づいてしまったこと。アマプラで間に広告が入るようになった世紀の改悪でなおのこと

 

12. 本を少なくとも50冊は読む

【達成】本の読了については常に議論がある。斜め読みを含ませていただけるなら、これは達成。仕事の本やレポートは日々読んでいるからだ。仕事以外で買った本は積まれに積まれているけれど。

 

13. 読んだもの、観たものについては感じたことを記録に残し、公開する

【達成】Instagramで映画用のハイライトをつくった。先の映画はここでカウントしている。本の場合はInstagramに収まらない反応が噴き出してくるので、様式が合っていない感じがした。その都度、書き残す時間と精神の余白が必要だな。

 

14. ネットサーフィンは時間制にする

【未達成!】できるか!っていう感じだが、これはやった方がいいな。枕でスマホをいじりすぎている。強制的なモードチェンジか、毎日のソフトランティングか。

 

15. 毎日や毎週の記録をつけ、公開する

【50:50。記録はつけていたが未公開】なぜ公開すべきとしたのか謎。見てもらいたい相手がいるなら、直接交流した方が早かったのではないの。公開する、見てもらえる「見せる・見られる」の関係はより構築的な考察を加えるべし。エモーショナルは救われない領域だよ、ここは。もっと殺伐としているからな。

 

16. 山に少なくとも50座は登る

【大達成】お疲れ様でした!これは大いなる達成。今年も登ったなあ〜!

 

17. 五竜岳鹿島槍の縦走をする

【未達成】縦走路への熊の侵入のニュースがあり、今年は北アルプスの主要な山域には出かけていかなかった珍しい年だった。好きだった人がここを歩いて、その時の朝方の写真が素敵だったから、また歩いてみたいと思ったけれど、熊とこんにちはしてからでは全てが遅い。登山者のリテラシーを全体であげよう2026年。喰われたのが弁当でよかったですね、ですからね。

 

18. 白根三山を縦走する

【達成】夏のうつくしい夕焼けと焼けるような山並みを体感できた。北岳以南は予想以上にうつくしく、壮大だった。

 

19. 甲斐駒ヶ岳にもう一度登る

【未達成】南アルプスの新規の山域にたくさん出かけたから、再度カイコマにはなれなかった。白い御体はたくさん拝ませていただきました。

 

20,21. 屋久島に行ってみる・神津島に行ってみる

【未達成】島への渡航を志したが、これも未達成。神津島はGWにめがけたが、天候が悪くてキャンセル。船のチケットは取ったのに。2026年はめがけてみようか。

 

22. パスポートを取る

【未達成】とれや!!来年とろう。以上です。


23. 毎日、誰かや何かへの愛情を味わう

【50:50】憎らしさに囚われてしまうこともあった。毎日は難しいかもしれない。手元にあってくれてありがたいわ、という感覚は心地良いので、積極的に取りに行きたい。

 

24. 親しい人たちに心を配る方を優先する

【達成】今年は「親しい人」がどんな人なのか、その輪郭がはっきりした年でもあった。抱えきれなくてお別れしたり、心ない言葉を放った友だちにさよならと言ったり、振られた相手を怒りで遠ざけてみたり。

親しいとは何かを思い知らされ、更にはその答えが海原のように広いということも知った。答えはいくつかある。無数にある。どこにたゆたうかでも変わる。そのなかで、ひとつの解は「軽やかでいられるかどうか」であると思った。ギチギチの関係性ではなく、そこが解けた状態であるために、私自身に軽さが要る。その軽やかさは何かとえば、今年の私はBillie Eilishの“Birds of a Feather”だった。宙を舞う鳥の羽のように、ふわりと軽やかでいること。

 

25. 私の心が優しくなったり、温かくなる方を優先する

【宣言通り】これはもう心が決まっていたとしか思えない。25のうち、これだけ宣告じみており、おそらく実際にそのように機能した。

3月まで、かなりの部分で私の心は軋んでいた。本能的な欲求に目が届いてなかったといえばいいのか、欲求たちに出口を与えられていなかったといえばいいのか。野生的な私と、精神的な私が分離していたというのか。

これをどう乗り越えたのかは覚えていない。つまりは、時間がかかったということだ。恋人も、好きな人もいない1年を過ごすという時間が必要だった。ある分岐に差し掛かった時に、それぞれ別の山脈を歩いている、そういう感覚がある。

それが腑に落ちたのは、さっきの白根三山の山脈の上でだった。農鳥小屋のテント場でテントの準備をおえ、私は間ノ岳をトラバースして、別の山脈まで散歩しようとしていた。だが、やめた。疲れていたし、近くで出くわした雷鳥の親子が健気で、見惚れてしまったからだ。

彼らは今、違う山脈をのしのし歩いている。隣かもしれないし、山を降りて、別のことをしているかもしれない。私はまだ山を歩いている。その人たちの背中はもうとっくに見えなくなったが、またどこかの分岐や山小屋で出くわすかもしれない。山肌を駆け下りて、また向こう側に登ることはしない。私の命が危ないから。そうはしない。ただ、願うばかりで、私は目の前に広がる景色に心身を浸す。

ここに誰かが来ようものなら、たとえ道を違えた人であっても、再び飲み物を差し出す準備をして。用意はできているが、期待はしない。彼らには彼らの歩みがあり、私には私の道が用意されているからだ。

***

ということで、元旦に求めた「かなえること25」は、多くが未達成だった!ジーザス!!そうはいっても、今年ほど私が一緒くたになった感覚も得難いものだったかもしれない。訪れていないまだ見られていない景色を求めていきたい。2026年にかなえたいことは、元旦にでも取り決めよう。

 

中野坂上の私

2025年3月7日の夜のことは忘れない。腰を抜かして、生まれて初めて映画館を最後に出た。エンタメの洪水に巻き込まれて巻き込まれて、シンシア・エリヴォの熱唱が黄昏の山の端に消えていく先で流れ着いたエンドロールの後のこと。そう、Wickedの話である。

それ以来、かの有名なポップスター、アリアナ・グランデ大先生と、サントラを聴くまではアーカイブにすら入っていなかった(それはそれで恥ずかしいのだが)、シンシア・エリヴォ女史の歌声に励まされ、秋の深まりを迎えている。

本国では11月21日、つまりこれを書いている日の40日後には劇場公開される後編「Wicked: For Good」のプロモーションも佳境を迎えており、来月の中旬からはプレスツアーがサンパウロを皮切りに開始、17日のニューヨークまで世界主要都市が緑とピンク色に染まっていき、21日を迎えるという算段になっている。

嘆かわしいことに日本公開はまたも来年(前編にあたるpart1は本国では2024年11月公開)になり、関係者にすみからすみまで届くような怒号を飛ばしたいところなのだが、トレイラー第一弾の公開日が最高潮だった「エンタメ後進国日本への嘆き」はいい加減に手懐けられ、今となってはサントラの配信をいまかいまかと待ち構える、行儀のいいファンになったことをここに報告しておく。

なお、そんな私に殴られ、自己の仕事ぶりについて反省したい関係者がいればいつでも歓迎します。

***

さて、それはそうと、気候がちょうどいい時期に突入して、ずいぶん街歩きがしやすくなった。

連休の最終日、私はもとから仕事をすると決め込んでいて、少しだけ遅く起きて朝ごはんを普通に食べ、それなりの掃除をするなどして下準備をして、家を出た。新宿二丁目の端っこにある某カフェがいつも空いているから、そこを目掛けるのだ。

昨日一日は、なぜかずっと眠気が取れずに、映画を観たあとで考える仕事がほぼ手につかなかった。練馬の街を歩いて眠気を飛ばそうにも、全然ダメで、強いカフェラテを飲んでも、トイレがバカみたいに近くなるだけでなお効果が薄い。

企画仕事なんてできないから、カルディで生ハムの切れ端を買って帰ったのだった。たまにこう、めちゃくちゃ眠い日があるのは、みなさんそうですよね。

翻って本日、朝ごはんを食べた後の調子は上々で、某カフェに勇んで入店、案の定席は空いており、荷物を置いてフィールド展開、デカいカフェラテを手に入れて勝負開始と相なった。

***

2時間近くして企画にも目処が立ち、あとは明日やればいいやと改まってしまったら、一気に気が抜け、のろのろと家に帰ることに決めた。カフェラテも氷が溶けて、とっくにカフェラテ風味の水になっている。これを嫌いだと言っていた人がいた気がするけれど、もう忘れてしまった。

「そういや、ACTUSファミリーセールのクーポンあるわ」と思い出して帰りにACTUSに立ち寄った。こういう家具をひとしきり揃えて、眺めのいいマンションだかで暮らすのは楽しそうだなと夢に見る。

マンションは都内にミニマムのがあればよく、那須とかにちゃんとした家を持てたらなおいいだろうとか、長野にも拠点が欲しいが、であるなら車中泊などを駆使できる車の方が便利か、などと考えたりした。

でもACTUSの家具はちょっとツルツルしている感じがして、手なじみがいまひとつな感じがした。この家具たちが、この場所で暮らす人にフィットしているのではなくて、これを買って扱える人にフィットしているからなのかもしれなかった。

生きていく、広さに金出す、暮らしかな。それも一興だろうが、まあ全てではないよなと結論を出して、ガッサガサの手先が彩られるようにと、ハンドクリームを安く手に入れた。

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大江戸線と丸の内線の間にある某駅のスターバックスから、人の往来を見ている。

席のうしろのボーイはナポレオン・ヒルの『思考は現実化する』をクソ狭いテーブルに広げて熱心に読み込んでいるみたいで、熱心にメモをとっている。

この人が引き寄せたい現実とはなんなのだろう。満たされない、憧れる、手元にはまだない何かが、彼の中で育っているのだろう。誰の目にも見えないけれど。

誰かのそういう部分が仮に見えたとして、私はそれを幸せとみなすのだろうか。「してやったり」と大変いやらしい笑いをたたえることになるだろうけど、かといってボーイの現実に私が介入して、魔法のつえで一振り、欲しいものが現れましたなんていうふうにはなるわけがない。

想像力はUnlimitedになれるが、現実にはI'm limited(これはFor Goodの歌い出しとThe Wizard And I中の歌詞の対比になっているんですね。はあ、本当によくできたミュージカルソングなこと)

Wicked: For Goodが早く観たい。Wicked Witchがいるのは、ユニバーサルの日本ブランチの偉い人か、あるいは配給会社か。どっち(Which)でしょうね。ニチャア

益子の手触り

雨音が天井を打ち付ける広い工房で、前掛けを腰よりも低い位置に巻きつけた私は、中腰の姿勢で目の前の土と向き合っていた。

「引き上げるイメージですよー。押さないでくださいね」。

眉毛のない女性スタッフの声がする。オンライン会議で映る画面で、いつも顔が半分しかでていない同僚にちょっとだけ似ている。

その一方、ろくろの上で情もなきままに回り続ける土の塊。少しだけくぼんだ塊の内側の方に、右手中央の指3本親指を入れて、外側を親指で押さえこむ。左手を親指のサポートに据えて、上へ上へと薄くしていく。

陶芸体験なのだから四苦八苦して当然だと思うのだが、いつでもお前の作品を直してやるよ、なのか、下手すぎた場合はこちらに主導権が移りますね、なのか、滞りなく教わるには声のトーンを慎重に聞き分ける必要がありそうだ。雨音がいっそうクリアに聞こえる。

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益子へ行きたいなあとをSNSでボヤいたら、道連れを希望する人が名乗り出てきてくれて、いよいよ計画を本格化させる動機を得た私は、まずその人について考えた。

というのは、その人は近く誕生日を迎える。だからだもんで、なにかできないかと思っているんだけど、という話を仲の良い友人にしたら「陶芸すればいいんじゃないの」との返答を得て、にわかに土いじりの衝動が育ち始めたのだ。

友人が自身の説得性を高めるために、自身のパートナー、友人の友人にまで聴取を行った結果、めちゃいいじゃんが連続、すぐさま体験場所を検索、友人パートナーの指南「湿っぽいのはNG。楽しむならGO」と、前半の謎を残した返事を巻き取った10分後には予約を済ませ、私は週末を迎えるために一路帰省、益子行きの日を迎えた。

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その人が益子への運転を買って出てくれるなどして連絡を取り合い、待ち合わせの時間や場所などを決めて当日、「ありがとねえ」などと気の抜けたお礼を口上しながら車に乗り込むと、ホルダーに飲み物が2本置いてある。

「どちらから好きな方を」とサラりといえてしまう周到なキメの細かさ。旦那、そういうのは、やってしまいますよ...。気の抜けた部分に流れ込んでくるホスピタルな対応にすっかり嬉しくなりながら、私たちは雨の益子へ、道中をおしゃべりで埋め尽くしながら向かったのだった。

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益子には独特の雰囲気が漂っている。

山あいにあり、決して大きくはない集落で作陶に励む作家のクリエイティブが滞留している雰囲気は好ましいが、極めてめんどくせえのは、同時にそこがある意味では吹き溜まりに感じられ、なんなら他所から来た人へのなんらかの参画(作るだとか、暮らすだとか、なんかそういうの)が、無条件で求められる感じ“も”する。

メディア業界に二桁以上身を置き、普段の仕事で向き合っているのが情報である私にとっては、土だの森だのを起点にものづくりをしている場所にいると、羨望と同時に所在なさもセットでやってくるのだ。

そして後者の声が大きくなると、誰かの何かを別の誰かに知らせることの手触りがさほどないというのか、実のところとしてはどうなのよ?と益子を囲む森の隙間から言われているような、幻聴じみた妄想までも割合スムーズだったりもする。

仕事を起点としたとは書いたものの、「Uターンやっぱりやめました」組の私には、結局このアンバランスさの出所は明確ではなく、まあまあ折り合いをつけたいわと思っても久しかった。

からして、益子だの真岡だの(益子町の西隣の市)に行ってみたくなったというのも、何か解決の緒を捉えられるかもしれない閃きの類を信用してみたかったからかもれない。

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こんな具合に、入り乱れる感情の渦はお構いなしに、しかしして雨の益子の風景はうつくしく、食べるものもおいしかった。

結論が一足飛びになるのだけど、何が起きたのかを記憶するときに最も大事なのは、実感であるのではないか。その時に何を感じたのか、どんな感情が流入してきたのか。目の前には、隣には、誰がいたのか。それに、質感が伴っているか。

道中などで道連れになってくれたその人から、その境遇や今の仕事、それらに付随するさまざまな考え方を聞くのが、ちょっとだけ不思議だった。料理や風景を共有しながら、私には赤裸々に語られているように見えたままならない事柄は、私の埒外にある。不明瞭な未来を含んだままでその選択なのか、あるいは判断なのかをするのは私ではなく、その人当人である。無論、私には私なりのそれらが用意されている。

しかし不思議なことに、私の外にあるはずのその話には、手触りがあった。質感があった。そして、手触りとは何かと思えば、たぶんそれらはある種の「摩擦」なのだ。

私はその人の隣にいるとは言えないぐらいには遠い場所、環境で暮らしており、話の全てに経験が重なるわけでもなかった。

だからそうした差分だけ、自身の経験やら考えとその人の考え方は異なっているし、なんなら擦れるのだ。完全には噛み合わない、言葉通りに理解しえない部分が少し残るばかりに、共有された話に私の感情が呼び起こされ、それらが話の手触りに転じていく。

共感できる・できないという次元もあるが、もっと手前、純粋に「違うなあ」と感じるその時に生まれる質感がある。たまに、映画とか小説のおもしろさを「共感できるかどうか」を軸に語る人がいて、げんなりして話をやめてしまうのは、これらの話が基準の話をしているからではないからだ。質感の違いがあることを知るのは、心地よかったりする。意外にも「あれ、考え方が似ているかもしれないぞ?」と思える瞬間も少なくない。

本当は実家に帰るつもりだったのを、その日のうちに東京へ戻ることにした。東京にすっかり馴染んでいるわけではにが、私の今の暮らしには、質感がきちんとある。地元と今の暮らす場所を行ったり来たりして、それぞれ行ったりの来たりの先で人がいることうれしいことだ。(自分の車に乗り込む際にも、でもやっぱり気の抜けたお礼しか言えなかったのだが)

***

ぐるぐると線を描いて目の前の皿が外に広がっていく。

「ドミノピザのでかいのが1枚乗るぐらいのクソでかい皿をつくるべし」。友人のアドバイスは有言実行。ピザでもなんでも、この皿のうえに乗せて食べれば気分いいじゃんと思う大きさまで広げに広がる。

無機質な土の塊が、直径30センチ超の平皿に変貌した。その表面には、中心にむかって、あるいは中心から伸びてくるようにうっすら線が残っている。自分の手がつくった線だ。

ちょっとした凹凸もそのまま残ってくれていいのだけど、これから削りの工程があり、それは工房の人がやってくれるらしい。平皿は、あわい桜色の平皿になる予定だ。焼き上がって納品されるのはちょうど真冬。春先が恋しくなるころだろう。

ちゃんと焼けるんだろうか、今はまだ想像はできない。けどまあ、悪いものにはなるわけがないだろうなと、変な確信だけはある。

安全地「袋」

松屋によくいますと言っていたのは、有袋類みたいな同僚だったか。

人あたりの良さはその人柄からじんわり常に染み出しているのだが、まずいことがあると袋に自ら飛び込んでいなくなってしまうようなのは最近分かり、その袋が自分自身の厚顔のうちにあるのか、それともこの松屋か。

昼時には袋の外に大行列もできる松屋はしばし人を招いては吐き出すのを繰り返している。有袋類同類は職場では革靴を脱いで、座り方が徐々に溶けるようになって、だがBPM150ぐらいで変わらずに貧乏ゆすりを刻んでいる。きっと袋のなかでも。

 

 

麻布十番ダッシュ

階段の隅から現れる人影が出発音をかき消す。ホームドアが閉まるのが早いか、ダッシュが競り勝ち無事乗車。安堵のため息漏れる、麻布十番の去り際。

イッセイミヤケのメンズライン、オムプリッセがイケてるなあと思うのは、やはりシルエット。足首にかけてすぼんでいく形は特長的な縦のラインと相まってスッとしているし、そのラインが膝の上下で切り替わってるのも良い感じ、なのだが、その主とくれば車内で口を大きく開き、スマホと見つめ合い、歯科検診をは受けているかのごとき様になり、カバンもバオバオのリュックで決め込み、おしゃれにしているのに、なんだか、そこだけが生き物だ。六本木から乗り上げた異生物。口元以外、イッセイミヤケ。代々木で下車。

 

大江戸線が暮れるころ、家路を確かなものにしようとする人々の焦る具合を眺め、なぜか心が安らぐ。香水ももう限界です!な香りを放つ人、なぜか化粧がドロドロになってない人、どいつもこいつも1日を過ごしてきた。

大詰めの仕事を手伝うことになり、1日ヘルプでついていた。なんとするや他の仕事よりもこっちです、至急ですという話。差し入れを買い、それは自分への労いも込めて、あつい神楽坂にたちより、涼しげなものを買っていった。その仕事もそうだし、いろんなダッシュした1日だった。もっと走れたかもしれなかったが、まあいいだろう。久しぶりの終電。明日はナスを配らないといけない。