私が理想とする私が、実は私以外が造ったものだったことが往々にしてあって、でも結局一時期は、そういう主体を生きてしまったことがあるから、出来合いの他人の理想を、私はあまり躊躇なく受け入れてしまう側面がある。
で、それを一部では辞めようと思うのだが、理想像自体を脱ぎ捨てるのは、それを生きたことがあり理想の達成を感覚として知ってしまった私をも引き剥がすことになるから、難しいのだ。
ひとたび誰かの理想を生きることは、その理想が機械的に定まっていったものだとしても、私が生きたことには変わらなくなる。理想と自分との距離が伸びたり縮まったりする道程には喜怒哀楽があったし、それらは生っぽくて、私を作ってきたような感じがするからだ。ほんだしみたいだ。ほんだしだって、旨い。ほんだし意外も、旨い。
だから、誰かの作った理想を生きること自体はきっとやめられない。ある理想に素朴に期待することを私自身としては丁重に取り除く必要があるだろうけれど、だからと言ってなんの理想も抱かないのではない。期待を辞めて自由になることは、心身にとって良くない気がする。
心の見えるところにある、シミのようになってる。ほんだしで出来たシミ。なかなか落ちない。そうだ、シミは落とすものだ。根気強く。
落としていく。私ならざるバクテリアだか界面活性剤だかの力を借りて、落としていく。
期待の分解の最小単位は、こうした文字かもしれない。本を読んだり、何かの記事を読んだりして、期待の外に出ていく。そうするうちに、私ならざるものの働きを感じることがあるかもしれない。
著作が出ることを楽しみにしているノンフィクションライターの佐々涼子さんの『夜明けを待つ』を読んでいて、こんな風に思えてきた。
ノンフィクション特有の、濃厚な死の香り。こうした読み物は、人間の誰もが通過する避けられない死について書かれている側面があって、体力がいる。けれど、避けて通らない方が良いものを、佐々さんは身を削って提示してくれる。
「死に方は、体が知っている」。
言葉が全てを分かつわけではないと思い知らされる。佐々さんは言う。体に任せようと。で、思う。体があってよかった。魂だけだったら、やっていられなかったかもしれない。
出来なくても良いわけではない、理想像を持たなくて良いわけじゃない。ありのままの自暴自棄は、それも用意された、出来合いの理想にすり替わることがある。注意を払わなくてはならない。時にそれらは中身のない広告だったりするわけだから。
でも、死を予感したり、誰かの生を思い知る時には、私しかいないのを感じる。生まれてくる時も、この生を閉じる時も、結局はひとりにならなくてはならない。
しかし、だ。こうした孤独を捉える過程を享受する術を、私はまだ知らない。続く荒野の先に霞んで見える山の峰への帰らずの旅とすれば良いのかどうか。幾度の登山を比喩として持ち出すことが精一杯だ。
分からない、分けられないことに、開かれて生きようと思うと、出来合いの理想が静かに去っていく感じがある。出来合いの理想像は古い友のようでもあるし、鎧の様でもある。馴染みの顔を見れば安心できるけれど、それらはもう戻らない。
この苦味を讃えながら、過ごしていくことを寿ぐべきなのか。分からない。が、分からないままで歩くしかない。こういう覚め方を、覚悟というのかもしれないな。