4日通しで借りたアクア。運転席の下をiPhoneのライトを全開にして照らす。ああ、あったあった。転がっている折り畳み傘。座席の下に腕を伸ばす。
旅の最終日。これから金沢へ戻り、車を返さなくてはならなかった。屈んだ身体を起こすと、めまいがした。ウィンドウに映る自分の姿が歪んでいる。
なんか、調子良くない。なんか、うまくいかない。視界にモヤがかかり、なんだか奥行きを感じられない時があるが、旅の途中はそんな感じだった。
北陸での仕事が終わり、駅の中のマクドナルド。Wi-Fiを拾ってリモート会議に出た。仕事の締切と、それに対しての追加の依頼内容の間でずっと齟齬が生じていて、それをただしたいとのことだった。締切延長は絶対ダメと言っていたはずのお客が言う。
「え、締切は伸ばしてもいいっすよ」。
お客の答えにお客の代理人が目を丸くした。
「え、こんなことになっていたんですか?!」
客との認識擦り合わせのズレを、まるで「認識があって良かったですね」と言わんばかりに声を張り上げた。画面の端で見切れているダブルチーズバーガーが冷めるよりも早く、心ほうが冷めていった。
気を取り直して、雨の金沢。ピックアップするレンタカー屋が入るビルに入れない。電話もつながらなかった。隣の駐車場に止まっているバンのトランクが受付だと、たまたまビルから出てくる人に乗じて入ったビル4階、レンタカー屋の事務所入り口ドアにかかっていた小さなホワイトボードで知る。車に乗り込んだら、請求が回ってないとの連絡。ホテル近くの駐車場に滑り込んで応じる。フロントガラスに打ち付ける雨音に紛れながら、溶け合うのでも、邪魔をするのでもなく、キーボードの打鍵音が車に満ちて行き場を失っていた。
思い通りになればいいのに。生きて暮らすあらゆる瞬間に、期待が忍び込んでいるみたいだ。金曜の宵はスムーズに休みに移行したいし、金沢は晴れていてほしい。窓口対応はいつも滑らかであってほしい。
私は期待を抱いている。いつそれが芽生えたのかなんて、そんなのは知らされない。あれが欲しいだの、あの人と会いたいだの、そういうのが無邪気に湧いて、私の中に居座る。どいてくれたらいいのに。
そうは言っても、人に期待しないで生きていて、それで幸せなんだろうかとも思う。気難しい顔をしながら無邪気な顔して期待している、私のこの丸出しのエゴを、そう簡単に否定もできない感じがしてくるのだ。どいてくれたらいいけど、飾り気のない拒否の言葉を浴びせるのも違うというか。
誰も乗っていない車、白山からの帰り道。窓から風を入れる。心地よい温度になったものだ。
風をやや強く感じるのは、多分に1人だからかもしれなかった。山に行く時には、隣に人が乗っているか、1人かだ。グループ登山というものにまだ縁がなくて、勝手気ままなという意味で、好きに過ごしている。
なのに、私を誘い出してくれる人はいるのだ。私は声をかけないのに。その誘いが快いものだから、私自身が誘うことに怠けながら、ここまで来た。惰性の匂いに自己嫌悪になりながらも、信号待ちのふとした瞬間に肌を撫でる広い風も好きなのだ。そんな時に、その広さゆえに、人が居るときにしか聞こえない音を、息遣いとか寝息とか、そういう音を聞こうとしてしまう。これぞ期待。無邪気な私が感覚を空に伸ばす。
慮れるのは自分ばかり。憂うのも自分ごとばかり。外を向いているようで、純度の高い私自身の問題じゃないかと、金沢を出た。
うまくいかない日常を憂うのでもなく、期待通りにいかない仕事の相手もどこかにおしやって、敦賀までの新幹線、遠くの山の端を目でなぞって遊んだ。