いちじしのぎ

生活から一時凌ぎで逃げては文章を書き、また生活に戻る人間の悲喜交交。あるいは、人生の逃避先「山」にまつわる話。

自分を愛せない人は、他人も愛せない。ならば、私はそういう愛し方をしないまで。

ある格言は言う。まずは、自分を愛そうと。で、それはどうやる?そういう仕方に迷ったから、格言にたどり着いたのではなかったのかい。

旅先の遠くから、ようやくこぎつけた馴染みの医者に「まずは生活習慣からだろ」などとぴしゃりと言われ、にべもなくとぼとぼと病院から帰っていく人を、私は遠くの陰から見ている気分だ。

自分を愛せない人は、他人も愛せない。愛に関する資格の話。まずは自分を愛そうという教え。もっともだと思うけれど、私はこうじゃないあり方もあっていいと思う。

なにかのせいで、自分のことが好きじゃない人がいる。あるふとした瞬間に、私はそれらを漏れ聞いてきた。「すぐ怒るの」「ケチなんだよね」「感情のまま、だから」。

 

で、私はどうなったかというと、彼ら彼女らをもっと好きになったのだ。

 

たいがい、そうしたボソリ発言が出てくるまで、私は言及された時に出くわしている。まずひとつには、今更それを言われたところで、どうしようもない。その告白を聞いて、敢えて何も付け加えることなど、大抵は無い。

そうでなければ、当該のその言動に腹を立てて、私はその告白を聞く前にあなたの前から消えているから。

 

こういう人たちは、それぞれの部分において、自分を愛していないのではない。そうあろうと努めているのだ。怒りっぽい人は、怒りたくなければ怒りたくないのだし、ケチな人は、そう感じてしまうことをなるべく減らしたいのだし、感情的になる人は、時折論理を挟みたい。彼らは自分をそう愛そうとして、できなかったり、できたりしてきた。告白の言い淀み、ためらいには、こうした経験が積まれている。

 

であるならば、そこまで私と過ごしたあなたは、少なくとも私との間では、そうした事柄からはとっくに自由だ。

ここまで棚にあげてきた私にもダメさはあるわけだ。口が悪く、おっちょこちょい。分かったような素振りをする。挙げたらけっこうな数になるダメさに耐えてくれたのは他人である、あなただ。自分の及ばないところを愛するのを、代わりに、あなたが成した。

 

自分で自分を愛せないその箇所は、別の誰かに委ねる選択肢が、ある。その時に、相手のそれも一部をもらう。受け入れるとか、そういうやつだ。その仕方が誠実な限りにおいて、私はそれもアリだと思うのだ。

 

自己肯定感が叫ばれるこの時代、それらを負う事すら、全部自分の背中に乗せようとしては、重くてしんどい。でも、相手のそれは、私のそれよりも、軽く感じられることがある。それならば、という話だ。

にべもない医者に入らずとも、コーヒーでも買って公園でダベったり、美味いものをぼんやり景色を眺めながら、横並びで飲んだり食べたりした方が良いことがある。そのうちに、何かを預かってもらい、何かを預かる。そういう瞬間を愛せていれば、私のことを愛していなくとも、愛していることにする。自他の線引きなんざ、それくらい緩やかでいいじゃないか。私は自分を愛せなくとも、他人を愛して自分を愛することができる。そうやって暮らしていきたい。