いちじしのぎ

生活から一時凌ぎで逃げては文章を書き、また生活に戻る人間の悲喜交交。あるいは、人生の逃避先「山」にまつわる話。

私たちは変温動物かもしれない

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うまく言い表せないのだけれど、実家の周りには独特の空気感というのがある。広く県域の北側にあるような気もするけれど、20年近く育った場所とあってか、実家は特別な気がするのだ。

生き物を飼う仕事をしているし、野良猫がやって来ては、何匹かが家猫になる田舎。質素な田舎暮らしとは裏腹に、庭では春にはふきのとうが育ち、夏以降は大葉が取り放題、秋にはゆずが大量に採れる。家で食べる文の野菜は近所の野菜名人と一緒に栽培計画を立てる。今ごろはじゃがいもかな。とにかく野菜は、作らないものを買ったりもらったりする。

空気感の話をしていたのだった。田舎にあるような互助の精神を言いたいのではなくて、なんだろう、季節が剥き出しになっているのだ。都会とは感じ方が裏腹で、季節の移ろいには、人は巻き込まれていく存在なのだと覚え直すというか。

都会での季節の移ろいは「広告」だ。購買意欲を掻き立てられたり、花見だなんだのと、整えられた場所や環境が、季節を知らせてくる。オフィスは季節を問わずにこ綺麗。いつの季節を生きているかなんて、その空間では問われないのだ。

実家に帰ると、季節を感じる仕方が真逆と言えるような感覚になる。生き物として、投げ入れられている感じがする。いや、およそ都内でも感じえる感覚だし、都心のそれが全て脱色されてるとは思わないし、思いたくない。

田舎と都心の二項対立はもっと複雑に捉えるべきだし、田舎ノスタルジーは都心にいるから描けるファンタジーの一種だとは、一度思い知らされた。

 

都心でも、田舎と同じようなメンタリティでいたいと思う。人よりも動物との距離感が近いとか、春の宵を感じてみたりとか。完全に難しいのは屋外の暗闇だったりするのだけれど。だから、山や海に出かけていくのかもしれない。

季節の中に投げ入れられて生活することで、都心暮らしの温度が戻ってくる。数値の山の上には決してない、山中の木漏れ日。

数値から溢れるのは人間の非数値の努力だったりするのだし。そうして生きて、time well tell。気づけば営業的に生きてしまう自分から、その都度脱皮していきたい。私たちは変温動物なのかもしれない。