いちじしのぎ

生活から一時凌ぎで逃げては文章を書き、また生活に戻る人間の悲喜交交。あるいは、人生の逃避先「山」にまつわる話。

戻っていく

針ノ木岳を過ぎ、スバリ岳を過ぎた山頂で、ある男性と短く話をした。身軽そうな格好をしていた彼は確か、「早いですね」と言った。そうですかね、適当に話をした。どこまで行きますかと聞くと、爺には行かないで下がりますと、確かそんな返事をした気がした。

先をいくその人を写して、シャッターを切った。奥には爺ヶ岳鹿島槍ヶ岳が見えた。いつか登ってみたい山たち。カメラを下ろした後で、しばらく見入り、私も歩を進めた。

南岳で日の出を迎えるには、少しだけ遅くなってしまった。大キレットの東側が赤く燃えるのを撮りにきたはずなのに、寝坊をしたというのではなくて、計画を誤ってしまった。

東側の山の端が燃え始めて、諦めが着いた。どこでモルゲンロートを見ることになるだろう。槍ヶ岳山荘から、南岳に抜ける途中の登山道でのことだ。

途中にあるハシゴを登った時だったか、その手前だったかで、朝日を体に受けた。近くに女性が一人で歩いていて、声をかける。「綺麗ですね」。本当にね、と応えたその人は、深く息を吸って吐いた。山肌が燃え始めた。槍の穂先もどんどん染まっていく。

私も同じように一息入れた。槍ヶ岳に向かってシャッターを切った。空気が新しく生まれているようだった。天を仰ぎ、風を肌に浴びてみる。まだ荒い呼吸の音、鼓動の音が体の中から響いていた。

いくつもと数えるには少ない出会いがあり、その中の相当数との別れがあった。何度も孤独を覚える時があり、何かを呪わずにはいられない時もあった。

そうした瞬間を連れながら、私は山を歩いてきた。その先々で、ほんの少しだけ交わした声があったのだ。そうした偶然の他者の声は、記憶を今に連れ戻す。

登山アプリで登った山の数を数えたら、300を超えていた。私が立ち返るべき山、俗世にあるよしなしごとも一緒に連れて歩いた山の数は、これだけになる。その時々に聴いた曲もある。それを聴けば、私はその時の鼓動にまた戻れるのだ。

戻る、という感覚。スピっている感じがあるかもしれないけれど、そういう人は黙って体験を消費していればいい。そうではない。戻ってきたと思えるかどうか。それこそが、私には大事な感覚だ。

 

 

ある苦しみを覚えてから、今これを書いている。耳元では、山で聞くためのプレイリストの曲たちが鳴っている。どれもこれも、いろんな瞬間で聴いた曲たちだ。行きの車、登山口に着いた夜、道中の樹林帯、眺めのいい稜線。いろんな場所で。

 

ままならないこともあるし、制度や何かの無理解から、私がしんどく縮こまることがある。その中でなんとか浅く息をするほかない時間もあるだろう。陥る瞬間が。信じていたものが、崩れていく様を見ることになるかもしれない。

そういう時は、そいつらも山に引き連れよう。一緒に連れていく。音楽や景色、肌に刺さる日差しや植物が擦れ合う音を聴かせるのだ。私と一緒に年老いていく感情として、引き入れる。そうして一緒に巡っていくのだ。

そうか、そのために戻るのだ。何度も山に戻って、その度に別の辛さ、喜びを連れていく。

そうして終いには、地球の重力の畝の中に、私はいろんなものを置いては並べ、空の先まで残り香を漂わせるのだ。元の木阿弥には帰さない。私は向き合うことから去り、横並びで歩くことを選ぶ。