いちじしのぎ

生活から一時凌ぎで逃げては文章を書き、また生活に戻る人間の悲喜交交。あるいは、人生の逃避先「山」にまつわる話。

フリート

朝起きて、ケトルに水を注ぎ入れてスイッチを押し、ベランダの室外機の上で育てているワイルドベリーの観察をするのを、日課にしていた。写真を1枚撮り、簡単に加工して、Twitterの「フリート」に投稿する。その後で、コーヒー豆をガリっと挽いて、豆乳と割る。そんで、1日が始まっていった。

そのフリートが4日朝までに、終わっていた。サービス終了のお知らせは、しばらく前に発表されていた。

投稿が一定時間だけ、24時間表示される機能。Instagramのストーリーとほぼ変わらぬ仕様が付き、後追い感があったにせよ、自分は嬉しかった。Twitterのフォロワーの方が、付き合いが濃いからだ。

当初は、よりコミュニケーションが活発になるようにとの意図で導入されたサービスだった。その意図が外れ、開始から8ヶ月で終わってしまった。

いやいや、コミニュケーションは活発になりましたとも。だからこそ、フリートが無い今日の朝は寂しかったのだった。

おもしろいと思ったのは、見に来てくれる人が時間も含めて、固定されていくことだった。この人は朝早い時間に、あの人は仕事終わりに。SNSが生活の中にあるのを実感できた。だから、見に来てくれる人の健康だとか、生活だとかを想像しつつ、つかず離れずぐらいの距離感で、投稿していた。見に来てくれた人のアカウントに行き、最近の投稿にいいねを返すのも、ライブな感じがしてよかった。

メッセージを貰うこともあったし、それによって一緒に出かけたりすることもあった。Twitterのフォロワーはほぼ知り合いだから、フットワークも軽い。こうしたきっかけはこのご時世だから、多いほど良いのにと思う。

しかし、サービスは終わった。Twitterを開いて画面の上を眺めても、自分のアイコンと、青い鳥が動かずにいるだけで、他のアイコンが表示されていない。

日課だった観察、どうしよう。Instagramの方で続けてみようか。いや、でもそれほど開かないし。Twitterが、本当にちょうど良かった。自分にとっては。

ただ、関係がサービスに依存するのも、なんだか、ヘルシーでない感じもする。もっと生身になれといった、おぼしめしなのか。生活の重なりを、ほんのひと時に感じれるのって、悪く無かったように思うんだけども。

身近なサービスがなくなったり、周りが人生を決めていたり、身の回りでいろいろ起きていて疲れてしまう。フリートでさんざんぱら書いた通りに、山に行く計画を立てている。俗世を逃れる道連れが欲しい。世捨てバディ。なんておふざけをフリートで書けなくなってしまった、という喪失感をしばらくは抱え込むことになるな。とはいえ、ありがとうございました。フリート。本当に楽しかった。