いちじしのぎ

生活から一時凌ぎで逃げては文章を書き、また生活に戻る人間の悲喜交交。あるいは、人生の逃避先「山」にまつわる話。

生きることへの執着

「読んでほしい」という文章を読んだ。

添削してほしいとメッセージには添えられていたけれど、読後、そこまで踏み切る事は叶わなかった。私にそういって寄越した人は、人を亡くしていた。そして文章は、亡くした人に宛てられて書かれていた。

添削するに必要な資格を、私は持ち合わせていなかった。必要な痛みを、心も体も知らない。文章のキレや息遣い、変わっていく筆致の重みを、私はただ受け止めることしか許されていなかった。そこから言葉を連ねることができる人間ではなかった。

 

あることがきっかけがあって、私はその人の親族と指摘な付き合いをするようになった。命が失われてから、喪失が生活の中で位置付けられている有様をある側面から見届けてきた。その度に山に登った。里山の森の中に、ゴツゴツとしたアルプスの岩肌に、思索を溶かしてきた。

 

その文章の中で、亡きその人が残した書き物からの引用があった。それが、生きることへの執着を肯定するものだったのだ。「生きなければならない」と言い切られていた。亡くなったその人は幼かった。なのに、その年齢とは思えないほどに聡明な筆致で、端的に生きることを肯定していた。

「負けた」と思った。到底及ばない思慮の厚さがあり、私はそれに気が付かないままに、これまでの付き合いで、その人を構築してしまっていた。「分かった気になるな」と言われた気がしたし、そういう態度が世界を拓いてくのだと言われた気がした。

厳しさと優しさが共存し始めたばかりのころだったのだろうと思う。その人が歳を取ったとしたら、今はどんな風に語るのだろう。出来事なければ他人のまま交錯しなかった人生を思う。

 

先月一人で武尊山に登った時。山頂から眺める東の山脈に、ある山があった。そこの山を、文章の中に出てくる人は登っていたらしかった。

その人はまだ幼かった。私が捉えている白い山脈とは別の山にのまれ、帰らぬ人になった。

 

もしも、その人が亡くならなければ、私はここに来ただろうか。登山にのめり込む理由はほかにもあったけれど、山の上で人を思うことはしなかったかもしれない。ある地点で雪を掘り、腰をかけた。

うまくいかないこと、出会っても実らない好意を引きずりながらも、相変わらず鼓動している心臓に耳を当てる。ここまでの急登でかいた汗が冷えていく。

その人は誰を好きになり、どんな恋愛をしたのだろう。それとも、誰も好きにならなかったかもしれない。その人と同じ年齢の時に私に生じた他人とのいざこざ、捨ててしまいのにアザのように残っている思い出やトラウマを思う。凍ったまま、音が吸い寄せられて消えていく雪山で。

喪失の収め方は、止めることのできない愛情をどう整えていくかの過程にほかならないと思った。悲しいとは、寂しいとは、それ以前にそれを上回る愛情があったことを表すのかもしれないとすら思った。文章を寄越したその人は、風の中に故人の声を聞くのだと幾度も話した。好きな人の香りを、ある瞬間に発見することに似ている。

その人は、痛みを抱えながら生きていくことを肯定することが救いだと言った。そういう態度を正しいというために、私はこれからも山に行くのだろうな。親しい背中を眺めている時も、景色に心身を奪われている時も。心の底で、そうとは意識せずとも、私はその行為に身を捧げている。