赤城という会社が作っているやつで、これのピスタチオ味がアイスコーナーの頂点に君臨するうまさなのだ。しかし、盛者必衰の理によってピスタチオ味はだいたい1週間ぐらいで消えてしまう。今回はその「フランボワーズ味」が出てた。無果汁、らしいけど。
2つ買い、家路に急いだ。暗い夜道、空気は肌にまとわりつくように、夜になっても冷めやまない。待ってろ今このアイスで火照った体を冷やしてやるよ。それから今。一緒に買っておいた抹茶ゼリーの方がうまかった。井の中の蛙、外界にはうまいデザートがままあるのだった。
フリートがなくなってから数日、なんだかやっぱりしっくりこないでいる。Twitterをよく更新する方だったから、余計にそう思うのだろう。毎回すぐに見に来てくれた人たちのことを考え、アイスをかじった。
他人のことを考えてしまうのはどうしてなのか。30を迎えるまでにあまり時間はないのだし、本当なら自分の人生について考えなよと言いたくなるけれど、頭を開けてみれば、たいてい他人のことを考えている。Amazonだったりを覗き込んで、膝のサポーターを探すような時間ですら、誰かがにとってのルックスを考えている始末だ。
それが自信の喪失だとかに、つながっているわけではない気はする。考えてもどうしようもないし、LINEで「いま何しているの?」と聞いてどうなるわけでもないのだが。ただ、元気かなと考える日々が増えた。
ああでもこれは、やはり数日前の入籍のニュースが大きいのだろう。打たれ弱い。おめでたい疲労。いやマジで、可能限り平穏に暮らしていたいのだけどもね。
おめでたさがエネルギーになる人もいれば、そうでない人もいるという摂理にブランコのように精神を揺さぶられている。体重をかけてたら三半規管が麻痺って吐きそうになるし、気分が沈もうものなら反面魂は抜け落ちて、靴飛ばしで失敗したみたいに、真上に向かって飛んでしまいそうだ。真剣に真剣に、ブランコに乗っている。本当は乗りたくないのに。
でも、他人のことを考えるのだ。他人から貰い受ける生命力に当てられているときに、救ってくれるのは自分ではなく、それもまた他人だ、なんていう風に思いたいのだと思う。こうして本当なら黙って処理できればいい感情を、言葉に書いてどうにかしようとしている。
日本のポップス界に独自の仕方で存在している藤井風というアーティストがおり、彼の「帰ろう」が好き、というより信奉している。「忘れる」という言葉が何度も出て来るこの歌のうつくしさは、いったいどこから出て来るのだろう。さわやかな風、優しくふる雨が、憎み合いの果てに背を向けて、国道沿いを歩いていく勇気をくれるのだ。
国道沿いの細い道。法律が保証するメインストリートを手を繋いで歩く人たちを後目に、独り行く。でも、向こうの人たちみたいに手を繋げない人たちは、いったいどこを歩いていけばいいのだろう。標識もまばらな側道を、国道の行き交いを横目にしながら。
この曲のPVがあまりにも綺麗で、最初に見た時にはなんでかわからないけれど、涙が止まらなかった。手を放すシーンが何度も繰り返されるのだけど、困り果てるほどにうつくしい。
与えられるものこそ、与えられるもの。私が頭の中に現れている人たちに与えられる所与のものはなんなのか。意味なんかわからないままでよいのだ。