いちじしのぎ

生活から一時凌ぎで逃げては文章を書き、また生活に戻る人間の悲喜交交。あるいは、人生の逃避先「山」にまつわる話。

受け取り方

日々、言葉を書き、読んでもらう営みを繰り返して、お金をもらっている。以前、お金については信頼が形を帯びたようなものだと本で書かれているのを読み、ああなるほど、と思ったこともある。

言葉というのも信用で、読んでもらい、それを字義通りに受け取ってくれるだろう、という信頼の元で書いている。読み手がどういった状況で言葉を耳にし、あるいは聞くかに、あまり左右されずにありたいとも思う。それはきっと傲慢なのだろうけど、なるべく真摯にいなければ、という命題は捨て去ったら終わりな気がする。

さて、そういう意味で、政治のニュースを見るのがしんどい。新型コロナの中等症の一部患者を自宅療養と決めた政府方針。連日のニュースで明らかになったのは、①政府が、専門家の集まりである分科会に意見を求めずに決めた②方針を取り止めるつもりが、5日お昼の時点でないの2点に絞られると思う。

https://twitter.com/chooselifepj/status/1423069477252460549?s=21

https://news.yahoo.co.jp/articles/b64dc3cda38e9c141776224a7af9bde3c36c79fe

もちろん、これについて回る問題は山のようにある。でも、一番に嫌な気持ちになるのは、国が発する言葉を、信頼し切れないという悔しさな気がする。

答弁に対して、あれやこれやと受け答えているのは、国民が、というより自分や上司、友人だったりが選挙券を手に持って役所なんかに行き、鉛筆で、開票作業が楽になる特殊紙「ユポ」に、名前を書き込んだ人たちだ。

選挙に行け!といろいろな人たちが言うし、投票できる権利があるそれには、毎度足を運んでいる。政治はあらゆる日常にあるもので、例えば、コンビニでコーヒーを買うにだって、消費税を払っている。名前を書きに行くのも、そのために、かいつまんでも、代表になりうる人たちの言葉を聞きたい。

だから、言葉が信頼されなくなっては終わってしまう。「徹底して講じる」とか「先手先手」とか。ストックフレーズが繰り返され、メッセージが単一になっていくごとに、届き方が雑になってしまう。多様なフレーズや言葉を動員したい。これは無論、実用的な自戒だ。