いちじしのぎ

生活から一時凌ぎで逃げては文章を書き、また生活に戻る人間の悲喜交交。あるいは、人生の逃避先「山」にまつわる話。

地方移住とは「山」である

新型コロナで地方移住への関心が高まっているという。1年半前に関心を高めた当方は「はあ?1年後もちゃんと同じサンプルで継続調査しろよな?」と思ってしまう。

テレワークやら脱オフィスやらで、働く場所を選ばなくなった人たちが、都会の喧騒から抜け出して田舎だのに暮らしながら仕事を続けるというイメージ。生活にかかるストレスを減らす、という意味では、ワーケーションなる日本語英語も誕生した。

本当に心の底から「都会の喧騒から抜け出したい!」ならさておき、流行的に「都会の喧騒から抜け出して、みたい!」ぐらいの気持ちであれば、悪いことは言わないので、しばらくは喧騒にまみれていた方がいいぞ。

もう少し具体的にいうと、都内でも多摩の方の森林が近いエリアに引っ越して「こりゃ毎週森でピクニックだな」ぐらいにしておいた方がいい。

田舎は面倒だ。本当に面倒なことが多い。何がというと「人間が」である。生まれ故郷であれば尚更だ。同じ会社に長く勤め、結婚、出産の総合レートで人間的評価が下る、それが田舎だ。さらに言うと、このレート査定は必ず起こる。

これに違和感を覚える感性に蓋をして、レートの通りというか、いわゆる田舎のファミリー像をなぞっていければ、それはそれで良いのだけれども、書いたように当方は「違和感を覚えている」ので、息がしづらい。

そうした査定レートを氷漬けにして「ほっとけバカヤロウ、あたしゃLet it go〜」と手から冷凍ビームが打てればいいのだけれども、冷凍ビームの手前の「冷や水」でも浴びせようなら、たちまちうとまれるという田舎。集落と差別はレリゴーが打破できないほど深い仲で結ばれている。

つまるところ、砂粒化しているなどと言われる都会の人間関係から逃げた地方には、ダマになってまとまっている人間がいるのである。都会は小さな声が多くてうるさいが、田舎は人はいないが、一人一人の声がデカくてうるさいのだ。

結婚するとかきっかけがあって、移住に「道連れ」がいればまだマシかもしれないが、そうもいかないとなると目的は自分で見つけなくてはならない。当方は今、それが「山」である気がしている。

景色がいい、空気が気持ちいい、自然に触れてリフレッシュする…。理由はさまざまあろう。が、仮にも今書いたこれらは田舎では大概その辺でクリアできてしまうので、目的にはならないことは言っておく。「今は都会暮らしだけど、自然が好きだから田舎暮らししたい!」は早々に挫折する恐れがあるとも言いたい。というかもう、その動機は半分折れている。

では何かというと、もっと大それたもの、自分にとってのっぴきならないものに取り憑かれている感じがある。生活や考え方、悩み事のそれぞれを紐解いていったときに、山に登って降りてくるというだけの体験が、わけのわからん作用を持っている。

あいにく、まだ数回しか試せていないから「そういう予感があるんすよねぇ〜」と、漠然としたことしか書けないのだけれども、青春時代を「キャンプなんて蚊に刺されるだけでクソ」と言わんばかりにエクストリームインドアで通して来た当方が、週末に山を目指すようになったというのは、ただ不思議だなと思うのだ。山には何があるのか、それとも、山を目指す人に何かあるのか。

しばしば登山は旅や冒険と一緒に語られる。ただ好奇心をくすぐられているだけなのか。気がついてみれば、自分の人間関係には旅や冒険と言ったフレーズと印象が重なる人が多くなっている。

当方は今、いろいろな山に行きたい。願わくば、この好奇心を分かち合える人と行ってみたい。そう思えてならない若干の焦りのようなものが、ハイペースを抑える抑制を生んで気持ちがいい。地方に移って来たのは山があるから、なのだ。当初あった別の目的よりも、今はこれが一番しっくり来ている。