いちじしのぎ

生活から一時凌ぎで逃げては文章を書き、また生活に戻る人間の悲喜交交。あるいは、人生の逃避先「山」にまつわる話。

ジョーカー

観る前と、観た後とでは、何かが違ってしまっている映画というのがあるけれど、「ジョーカー」は間違いなくその1本になる。

信頼しているレビュワーさんが「ただの劇薬」と言い放っていた。「とても危険」とも。公開は2019年の秋で、当時はニューヨーク市内の映画館に厳戒態勢が敷かれていたらしい*1

ジョーカーを巡っては実際に2012年にアメリコロラド州で「ダークナイトライジング」の試写中に70人の死傷者が出た銃乱射事件が起きた。事件が起きた映画館では、公開が見送られたらしい。*2

実際、レビュワーさんが書いていた通りだった。この映画は「劇薬」だった。激しい怒りの感情は、ホアキン・フェニックスの「笑い」によって、かろうじて不気味だからと退けることができたけれど、そうでもなかったら大変だ。というか、あの「笑い」を取り込んでしまったらと思うと、本当に恐ろしい映画だった。

この映画に出てくる社会は、めちゃくちゃリアルだ。今の日本と置き換えても、ほぼ差し支えない場面が多すぎる。社会福祉から削られる予算然り、政治家が国民を見ていないこと然り(劇中裏で殴ったりする)、地位の高い男性の女性蔑視然り。身に覚えがある点が多すぎる。

たまたま一丁の銃が文字通り「引き金」になって、映画は展開されていく。主人公は「ダメだよ、銃なんて」と言って見せるが、暴力の象徴たる「銃」は、手放せないものになってしまう。

これ、どうすればいいんだろう。この映画、どう考えても群衆は「怒り」をあらわにする局面だ、現状の日本は。でも、そうなっていない。いや、なっていた。今から6年前の2015年には、安保法案を巡って12万人規模のデモが、国会前で起きていたわけだし。*3

新型コロナでこうは集まれなくなったわけだけど、政治家の言葉を、行政の信用しない(というかできない)状況は未だに続いている。相変わらず「自粛」を求める、壊れたラジオって公務員は笑えないよねな状況が2年ぐらいになろうとしている今、この映画を観る意味は、2019年からより重くなっていると思う。人様の金メダル噛む政治家、まだ辞めないし。

キモすぎる高齢政治家によるキモすぎる所業が常態化する中で、感染対策が進んでいる現状に、怒られずにはいられないわけだが「ちょっと待て」と。私たちの手の中には銃はないし、仮にあったとしても、それを握るべきではない。

同僚から「引き金」を受け取らないでいられる方法はないのか。シニカルな笑いを避けて、誰かを指差して笑うのをやめて、怒りを別の何かに置き換えることは可能なのかよ...。「社会風刺」だなんて表現には収まりきらない。画面のどこかに、私やあなたが出てきたかもしれない。


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