いちじしのぎ

生活から一時凌ぎで逃げては文章を書き、また生活に戻る人間の悲喜交交。あるいは、人生の逃避先「山」にまつわる話。

「自罰的感情は私を救わない」

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スーツケースを引きずるを音がする。まもなく家のゲートを過ぎて、その人の部屋に帰っていくのだろう。

暦の上では、正月はまだ続く。成人の日と合わせて休みをとっている人は、8日までは休むのだろうが、私は明日から仕事が始まる。また1年が始まる。

 

今年は、休むスケジュールから率先して入れていこうと思う。2023年は、何度か高熱を出して倒れてしまった。それも、体が心を一緒に悲鳴を上げたからで、2024年はそうはなりたくはない。時間も、気力も、お金も、全て持っていかれるのが嫌なのだ。本当に。

借金玉『発達障害サバイバルガイド 「あたりまえ」がやれない僕らがどうにか生きていくコツ47』(ダイアモンド社, 2020年)を一気に読んだ。発達障害の当事者である著者が語る、自称・意識の低い自己啓発本

精神疾患なのではないかと、思う時がある。集中力が出ず、やたらと悲観し、気力がそこについたようで、休日は長いこと布団にいる。なんらかの病名がつくのではないかと疑ったことは一度ではない。

この本は、障害を持った当事者以外にも効く。なんというか、ぜえぜと疲れている中でも歩くか這うかして進まねばならない時に、隣でぜえぜえ言いながら、同じような遅さで進んでいて、ふと目があって微笑む、みたいな存在だと思った。本当にざっと読んだが、きっとこれは常備薬として、何度か読み返す本になると思う。

 

読みどころだなあと思うポイントをノートに書いて見直している。自宅を機能的にも、娯楽的にも、投資すべき(前向きにお金を払うべき)であること。生活必需品の「補給を訓練」すべきであること。いい借金の3原則。

特にじんわりと響いたのが、「完全な休日」を設定して、休養すること。ある種、自転車操業的な忙しさに駆られている中でも、休むことを最優先すべきであること。働かなくても休めるが、休まないと働けない。休息こそが、人生の最重要課題である。

 

仕事始めが億劫になるよりは、幾分か前向きでいたいから、柔らかくて甘い水のようにこの本を一気読みして、体に不足していたある部分での潤いを補給できた感覚があって、なんというか、助かった。

読みながら、机の上を適宜カスタムしていった。小さなワンルームにある、小さな私の知的生産拠点。これも本に書いてあったことだ。

 

できないものはできないし、苦手なものは苦手だ。それを克服して、なかったものにすることが理想であることに変わりはないにせよ、苦手や不得意と一緒に生きていくことに、なんだか現実味を感じている。そういう不器用な自分像を読書によって形作れるとしたら、それってけっこう良いことだなと思うのだ。

人肌ぐらいに

Open Arms Policy

昨日の日記は元旦の夜に投稿していて、だから全日空の事故の件は全く知らなかった。何度もテレビに流れる輪島市の様子に胸を痛めていたら、羽田での一件を知ることになったのだった。

この混迷をどう受け止め、咀嚼すれば良いのかわからないまま、正月休みの最終日を迎えている。相変わらず朝がきて、起きてコーヒーを淹れ、プロテインを溶かし込んで胃に流す。起きぬけ、温度のない体に暖かい飲み物が流れていくのを感じる時に、大げさでなく、生きているなあと思い直し、なんとなしに活力のようなものを感じる。
 
初詣に行きたいのだが、目星をつけている場所はきっと混んでいるだろうから、車で別の場所に出かけようと思う。家の掃除をして、実家に帰っていた時にたまった埃を一掃し、生活ができる場所に仕立てていく。

遠地で災害が起こった際に、何かを迫られているような感覚になる。漠然とまとめてしまえば、それは「気分が落ち着かない」のだろうし、「どこかざわついた感覚が続く」と言えそうなやつだ。遠隔地で起きている惨事に、どう向き合うのか。
 
実家のこたつで、元日からずっとNHKを流し見していたのを時たま止めて、ご飯の準備をした。おせちの残りものを、大皿から少し小さい皿に取り直して、家族の食べる分だけの餅を焼く。

湯気が上がるお椀を茶の間のこたつに並べて、父と母と共に被災地の様子を見ながらご飯を食べる。その後も、両親は帰ってくるなり「どうなった」と声をかけてくる。
日常を確かに送ること。きちんと、ではなく、確かに送ること。朝起きて、ご飯なり湯なりを体に入れてあたため、関心を払いながら、時に心身への情報を遮断して、回復すること。

元旦に、「遊び」について調べていたら、ロジェ・カイヨワ*1という研究者が、日常から分離しており、結果が不確実で、強制されない活動で、独自のルールを持つことを「遊び」の特徴に挙げていた。なんとなく、休むことも、似たような性質を持つのではないかと思う。

 

東京に入るなり、情報の多さにやられている。聞こえなくてよい音があり、広告がありで、不要か必要かの判断の間に、ずけずけと入り込んでくる。

それを自然と許容しない方が良いのだろうなと思う。情報の遮断と受容に対し、まあこれは職業柄ではあるけれど、より敏感でありたいと思う。


以前、職場で一緒で同じタイミングで転職した先輩の記者が、ジャーナリストの「惨事ストレス」について記事を書いていた。

ストレスに対して敏感でありたい。これを見逃すということは、私自身をまるっと見逃すことだろうと思う。

圧力がかかる状況はやってくる。のだとしても、それを書き留めておくような、微細な、つまらないかもしれない営みを、今年は確かにやっていこう。きちんと、ちゃんとではなく、これも確かに。「あるべき」の精神ではなく、「やることをやる」の精神で。

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年末の会社で、ノースリーブの格好をして打ち合わせをしている人がいるのを見て、同僚が「変温動物なんですかね」と笑っていた。

私たちは恒温動物で、体温の上下に弱い。すぐ熱は放射できないが、何かにくるまったり、安全でいれば、人肌ぐらいには暖かくなれるし、両腕が広げられる範囲なら、その環境を分けてあげられる。2024年は、常に少しだけあったかい状態でいられるようになりたい。

正直に生きることだ

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新年早々の地震のニュースに、気持ちが持って行かれている。それぞれの仕方で「被災」した人々が画面の向こうにいる現実を、あまりうまく飲み込めない。かわいそうだなと独り言を言う前に、Yahoo!基金があったので、少額をそこに寄付をした。

今年は思ったことを素直に書き出すことをやってみたいと思う。いつも、自分の中で声がしていた。「意味があるのかい?」といった類のやつだ。大概、それは親しい人の声で響くことが多かったけれど、よく考えてみたら、そこまでその人が私に関心があるかどうかも微妙なところですらある。ああこれ、あまり面白くない話だ。

 

毎年年始を迎えるまでに慎重する手帳に、今年の目標みたいなものを書き込む。健康に暮らそうだの、いくら貯金しようだの。あとは、たくさん山に行こうというのも。

それと、いい加減、私自身に正直になりたい。2年ほど前に、自分のアイデンティティの面で「私はこうだ!」と決めて込んだ部分があったのだが、そうと決めて顔を上げ、目の前に現れた人には際しては、決められている部分があまりになかった。

その人への遠慮や気遣いやらを止められず、「ああ、これはちょっと嘘ついてるな」といった状況にすらなった。それにひれ伏すしかない時が、まあまああった。

それをしないことが「正直」なのかはまだ定かではないにせよ、嘘をついているなという感触は生活に尾をひく。ずっと苦いなにかが奥歯の奥に染み付いている感じがする。

それは、正直な生き方ではないなと思う。

自分の心が砕かれるとか、嫌われて関係が終わってしまうとかの恐怖に怖気付く前に、いつもの対応として脊髄反射的に薄い膜のような嘘をついて、取り繕う。自分自身を守とかいう意識はなく、もうただ、普通にやってしまっている。そういう態度が、私自身を正直でいることから、遠ざけてしまうんじゃないかと思う。

正直ではないことは、自分の拠り所を無くすことなのではないかとすら思えてきた。そうして人生のある側面で迷子になってしまうのだとしたら、もうそういう歩き方はしなくてもいいのではないか、私よ。

心身ともに、まだそうした凝り固まった態度には、ストレッチが効くだろうか。間に合うだろうか。少なくともそうと信じて、正直にあろう。

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さもありなん:私的2023年振り返り 2/2

2023年を振り返る。

こういう時に書くものは、大抵雑になる。悲しかったことを書けば、そのほかにたくさんあった喜びが曇る。そういうものだから、これから書くことは全てではないし、書かれなかったことがそのまま私にとって重要でなかったことにはならない。

Sunset

7月、長野。

まったく余裕のない状態を私自身を呪っていた。これが自分の限度なのだと自覚できればいいのだが、仕事もいっぱいいっぱい、生活も同様だった。山に行けば天候が悪く撤退。それも一助にすれば良いのに、私は当時、そうもいかなかった。声を荒げ、それでいて怯えていたの。たくさん、雨が降った。

 

薬師小屋の先で、炭酸飲料を一気に飲み干した。水分が足りなかった。別の場所では、おじさんパーティが宴会を催していた。俺はいつあの山に登った、いやいや俺なんか、この山になというマウンティングが跋扈していた。気色悪かったが、山は綺麗だった。

風は抜けていくのだが、余裕のなさはまだ居座っていた。ずっといる。東京に来てからなのから、それよりも前からなのか、ずっといた。

翌朝、北岳のモルゲンを眺めた。何かが出そうな森の中を抜けて、白根三山を眺められる山の頂上に移動した。お湯を沸かして、写真を何枚も撮った。

 

8月、針ノ木岳の山頂。

スバリ岳を眺めた。遠くに白馬岳、近くには立山が見える。山の日はよく晴れた。祝福されているような天気だった。

前日、あらかた仕事を終えて、急いで車に飛び乗り、さっさと高速に乗った。扇沢の駐車場で眠り、そのまま山に登った。山小屋へたくさんヘリが飛んでいた。ハイシーズンが始まっている。針木小屋も予約でいっぱい。

蓮華岳の道中で、雷鳥の親子に遭遇した。山頂まではガスに包まれて、さながら天国への道中のようだった。白い山道と、ハイマツの深い緑。雷鳥の親子はここにいた。ほかの登山者が気づいて寄ってきて、彼らはすっといなくなった。

スバリ岳のモルゲンは相当綺麗だったけれど、一部のカメラマンの無作法さに興が乗り切らない。奴ら、自分の場所のためなら、どこであろうと三脚を立てるのだ。立山の方が日差しを受けて明るくなる。立山、剱は来シーズンになるかもしれない。ザクザクと歩く。剱は本当に見事な姿をしていた。

 

9月、東川町の田んぼに立つ店の中。

おかゆを食べている。かぼちゃが入っている。腐乳というのは実に美味しいのだな。ドロドロに煮込まれたおかゆと、わずかにすくったそれとを一緒に食べるとおいしい。

旭岳に登った翌日だった。黒岳に続く23kmの道のりを歩きききり、よくわからないホステルで眠った。翌日の風の柔らかさは、その後今までの救いになっている。

レンタカーを借りて北海道を走ったのは初めてだった。中島みゆきの歌で、過去から今までを洗い直す。このドライブに出る少し前に、ナイトキャップスペシャルを初めて知った。特別製の寝酒になってあげる、女友達の歌。

旭岳の紅葉を眺めて、歩く喜びを噛み締めた。来シーズンは小屋泊ができるかな。トムラウシに登りたい。

 

10月、巻機山山頂を過ぎた山道の脇。

私はしばし眠った。秋晴れの心地よい日だった。

山の上でコーヒーを飲むかと車を走らせ、朝6時半ごろに登山口に着いたが、駐車場はほぼ満車。登山を初めて3年弱となり、選び抜かれた装備はシンプルなベストタイプのもの。救急キッドやコーヒーなどをがさっと入れ、登山道をかけていく。

金銭的にも仕事量的にも、昨年の方がずっと余裕があった。登山をするしない以前に、生活全般の余裕のなさをが常に体を纏っているような気がして、それを払拭するために山に行こうにも、なんだか気乗りしないというのが続いた。

今年は新潟方面に縁があるようで、谷川岳を過ぎて長いトンネルに入るのは3回目だった。山に行く時に一緒の人と誰もいないのとで違う山行のありようを思う。

巻機山の上からは、越後山脈がよく見えた。谷川岳を南に、八海山だの越後駒ヶ岳だのは北に見える。紅葉が盛りで、草紅葉の絨毯がずっと遠くまで敷かれていた。

山の上で、飲むコーヒーはおいしい。針木小屋以来だった、こうして山の上で休むのは。何を考えていたのだろう、当時。荒々しい越後の山並みが映像として記憶にある。雨風雪によって削られた山並みのずっと手前で、目の前のブタクサが揺れていた。

 

11月、万座温泉

白濁した源泉に浸かりながら、この後のことを考えた。3日続く旅行の初日。湯船近くの小窓から外の冷たい空気が入り、湯煙がもうもうと立ち込める。木造の浴場は湯気で満ち、暮れていく外からの光を取り込んでいる。湯に浸かる男どもは、言葉少なだった。

草津にも行き、なんとその後は山梨に移動した。長いドライブは好きだ。暮れていく景色の中を共に過ごすのが心地よい人(どんなだ)を、隣に乗せていた。何の緊張もせず、その人の存在で仕事の気配も遠くに押しやって、3日を過ごした。道中で味わったものも素晴らしかった。瞬間のきめ細かさ、状況の幸福度が、現実から私を浮遊させた。非日常であることを悔やみさえした。こうした現実が、日常となるためには、私は何をすべきなのだろうか。

 

12月、豊島園のスターバックス

店の角の席に座り、パソコンを広げて一連の文章を書いた。

最初に思い浮かんだのは、前職の仕事場だった。宿直明けなどの朝、冷たい空気を社内に入れるのが好きだった。朝刊をおのおのチェックして、テーブルに並べる。早番のデスクが来れば、晩中に起きたことを報告して、その日は休みになる。

あれからまもなく1年が過ぎようとしている。この間、しっかりと3日以上休んだ記憶がない。よく働いている。休まなすぎだと言わんばかりに、ここ半年は2ヶ月に一度のペースで風邪を引いた。来年の抱負は、ちゃんと休むことだだ。

冬の日、本当は山梨にでもホテルを取って、そっちで振り返りをしようと思っていたが、午後になって車に乗る気力が湧いてこなくなり、断念した。最低限の荷物をまとめ、でもちゃんと日焼け止めは塗って、外に出る。冷気が染みる。すっかり冬になった。

ワーナーブラザーズのハリーポッターのスタジオができたから、豊島園の週末は賑やかになった。それでも場所が広いし、そのスタジオツアーは予約制とあって人混みというほどでもない。家から歩いて15分。今日も大して変わらなかった。

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目まぐるしい1年だったが、ようやくその波もおさまろうとしている。クリスマスなんていいから、早く年末の休みになればいいのに。人へ連絡を返しながら、そう思った。

映画館に訪れ、『屋根裏のラジャー』のチケットを買った。イマジナリーフレンドの話。なんとなく、今にフィットする言葉な気がしたのだ。空想の人、想像上の関係性から、次に進みたい。2024年はどういう年になるのだろう。

変わる生活:2023年振り返り 1/2

Wavy Fluid Painting

4階にある編集局のデスクで1人、ラップトップを広げて記事を書いていた。ような記憶がある。実際に何をしていたのかは覚えていない。部屋の南側にあった、局長デスクの真横の応接室。そこの窓から眺める宇都宮が好きで、そういう時に一人、窓を開けて冬の冷たい空気を肌に当てた。

 

2023年を振り返る。

こういう時に書くものは、大抵雑になる。悲しかったことを書けば、そのほかにたくさんあった喜びが曇る。そういうものだから、これから書くことは全てではないし、書かれなかったことがそのまま私にとって重要でなかったことにはならない。

 

1月、谷川岳の稜線。

バックカントリースキーヤーと登山者で長い列の中で、私はいらだっていた。

7,8人ほど前の登山者が、道を譲らずひいひいと歩いている。ちらりと後ろを見れば、自分がいかに遅いかがわかるのに、自分の疲労と向き合うのに精一杯になっている。いつその渋滞を抜けたのかは覚えていない。肩の小屋に近づくにつれて、隊列は散り散りになった。万太郎山の方の稜線に目をやると、いつものあの光景で視界が占拠される。

せっかちになり、いらだっていたのは、この時に転職活動をしていたからであると思う。将来を考えた時に、私はいつまでも宇都宮の景色を眺めているばかりではいかないのを、冬の空気に感じていた。たくさん面談を申し込み、企業と合う合わないを重ねている最中に、私は冬山に登った。雪が音を吸い込んでいく。そんな中にいなければ、何かが切れてしまう気がしていた。限界が近くにあった。

 

2月、石神井公園駅の南口。

穏やかだったが、風が冷たい日だった。この日は誕生日で、東京に部屋を探しにきていた。

転職先を決め、再び故郷を離れる手筈を整え、周囲に伝えきった後だった。父母には、東京が私の心身の健康を蝕む地だという先入観があって、母は転職するとの知らせに涙を流した。

子離れできていない母、毒親、この時代にはいくつもそうした言葉が生まれているが、母にはいずれもそうした言葉は当てはまらない。ここには自分の生き抜く術はないと言い切った。そう信じるしかないとも思っていた。

石神井公園駅を少し行ったところの不動産業者と午後1時に約束をしていたが、引越しシーズンの多忙さから、1時間ほったらかしにされ、1時間弱で得られたのは、たった3枚の住宅情報だった。「もう帰ります」と言い放って店を出て、住みたい町を歩くことにした。光が丘、春日町と歩き、豊島園に来た。当時、ワーナーブラザーズのハリポタのスタジオは建設中で、壁が覆っていた。

30歳はどういう歳になるのだろうと考えた時に、楽な歳ではないだろうなというのを、昼にケンタッキーに立ち寄って考えた。生活環境の変わるストレスや、仕事の合う合わない、次の職場にいる人たちの顔ぶれ。気になる項目はいくつもあり、そのどれもが手触りがなかった。

 

3月、虎ノ門のとあるクリニック。

健康診断をしなければならず、わざわざこんなところまできた。

見上げるほど高いビル群の中にある、なだらかな坂を登っていく。見通しが悪い。都市部だけにある、街の陰。狭い道の傍の家々の先に咲いているパンジーを、嫌に懐かしく思った。体重計に乗ると、少し太っていた。

都内に戻ってから、38度台の高熱が4日ぐらい続いた。1月で近かった限界はここにきてやってきた。ウーバーイーツを頼みまり(韓国料理が多かった)、宅配サービスで食材をオーダーした。張り巡らされている流通のネットワークが、文字通りセーフティネットだった。網目が粗くて掬えない宇都宮のそれとは違う。ありがたさを感じながら、対価を介するようになっていく人付き合いに決して気持ちは明るくなかった。

 

4月、東京タワーの2階にある担々麺屋。

角煮担々麺の高カロリーゆえの遠慮のないうまみに、慄いていた。

訳のわからないTシャツを着た外国人がひしめいている。観光バスもたくさん来ている。桜はあっというまに咲いて、あっという間に散った。今年も開花は早く、その早まりなんか関係ないほどに、人々は花見を楽しんでいた。

東京は季節を感じるのに、イベントが必要な場所だなと思う。コマーシャル的なものや、祭りのような賑やかな興行か。風の弱さや強さ、蕾の膨らみによってそれを直接感知できる人間でありたい。春先、仕事は早速始まり、私はまた別の現場で汗を流し始めた。

 

5月、仙ノ倉山へ続く稜線。

山の上の台地の真ん中を、縦に1本の登山道が貫いているのを見下ろす。

遠くに仙ノ倉山のピークが見えている。冬が終わるのは地面からだ。緑が山肌の底の方から現れてきて、白と褐色の色合いを空に返す。谷川連邦一体では、ちょうどその作業が始まったばかりのようだった。

一緒に行きたい人がいたが、誘えなかった。少し前にこっちに来ていて、やりとりをしていた。いやに恋しかったのを覚えている。

仙ノ倉山の向こう、エビス大黒の頭を眺めながら、肌がほどよく温まるような日差しの下で昼寝をした。これから別の季節が始まって、空気の温度が高まり、また冷えていくのだろう。予感がした。コーヒーを淹れて、飲んだ。せっかちになった谷川岳の方は、雪がまだ残っていたが、雪が溶けて地面が亀裂のように見える光景を確かめるたびに、自分の強張りも空に帰るようだった。

 

6月、鳥海山の山頂手前。

私は雪に塗れていた。この日の前、後輩が亡くなった。

一緒に楽器を演奏したことがある少し年の離れた、元気のいいやつだった。私はその彼が大学時代を過ごした場所で、訃報を聞き、またその場所を見下ろせる場所に向かっていた。

ピーク手前、堪えられなって涙が出た。遠くに月山が見える。ここに登ったのは22年の7月で、私は当時、酷い悲しみの中にいた。それを違う角度から眺め、当時の悲しみがある程度片付いたのを知り、同時に、新しい悲しみを迎えなくてはならないことが、ひたすらに辛かった。

悲しみが解けた山形の空気には、後輩の雰囲気が含まれている気がした。植物や花が咲き乱れるにはまだ早い時期。鳥海山の中にも、慰霊の碑があった。登山から1週間後、通夜に訪れると、楽器が飾られていたが、組み立て方が間違っていた。家族の方に声をかけて、正しい位置に組み立て直した。

とんかつ無情

六本木がギラついていた。ヒルズの方は薄暗く、通り沿いのネオンがどぎつい。ミッドタウンの方は、クリスマスが終わっても街路樹に明かりが巻き付いている。そこそこに門松があるのに。どっちに行ってもギラついている。

 

午後8時と半刻。1時間と少し前に食べたシナモンロールとコーヒーが電池切れになろうとしていた。腹の中にはまだカロリーがあるのに、微妙に腹が減っていた。

この居残りカロリーを減らすべく、進路を北に取る。六本木が暗くなる方に歩くと、乃木坂を経てやがて青山に流れ着く。中島みゆきを聴きながら、すれ違うリーマンズを景色にして、夜風を受けて歩く。今日は少しあったかい。

 

青山の吉野家はカウンターが全部混んでてダメ、駅前のスタバがあるビルのサラダ屋は葉っぱと少しの鶏肉で1500円と、いろいろと話が合わなそうなのでダメ。流れ着いたのは、とんかつまるやだった。オープンキッチンで、油の香りがじわっと香ってくる。

ロースカツ定食750円。この時間から、またシナモンロールの残骸の上から被さるものとしてはめちゃくちゃ重いのだけど、それとなく頼む。「ロースカツで」

 

高校生だったころに、美味しんぼをやたら好きな人と親しくしていた。家に遊びに行けば美味しんぼのVHS、小さな商店を営んでいるそいつのばあちゃんから、小さなポテチを投げてもらった。それを食べながら観るのがたいていそれだった。

「とんかつ慕情」とは、その美味しんぼの話のひとつ。詳しい展開は記憶の彼方だが、要は、大人ってもんはとんかつを好きな時に食えるやつのことだ、みたいなオチだったのだけ覚えている。ファミレスで頼むハンバーグとご飯のセットが1500円で高いなと感じていた時代。

 

10年も経てば、ホテルのカフェで1500円のカフェラテを平気で頼んでしまうのだが、その時には私を過去に引きつれない。唯一、とんかつだけが、そいつの顔を引き連れてくる。

 

750円にしては大きなロースカツが運ばれてくる。しじみの赤だしに、大根の塩漬け。ほんのり柚子が効いている。肉は柔らかく、少し強情な衣と混ざり合う。塩とカラシ。うまいなあ。ご飯の甘み、赤だしの塩味。キャベツはやや荒切りといったところ。

私ったら、ちゃっかりとんかつを食べられるようになってしまった。高校生の頃の私よ、喜んでくれ。大人になるって悪くない。

 

高校生の頃、いろんな思いを抱いた美味しんぼのそいつとは、ある出来事がきっかけで溝が出来、私があたふたしているうちに他の誰かと結婚して、さらには国外へ居を移した。慕情を感じるにはあまりに遠のいてしまった。