いちじしのぎ

生活から一時凌ぎで逃げては文章を書き、また生活に戻る人間の悲喜交交。あるいは、人生の逃避先「山」にまつわる話。

変わる生活:2023年振り返り 1/2

Wavy Fluid Painting

4階にある編集局のデスクで1人、ラップトップを広げて記事を書いていた。ような記憶がある。実際に何をしていたのかは覚えていない。部屋の南側にあった、局長デスクの真横の応接室。そこの窓から眺める宇都宮が好きで、そういう時に一人、窓を開けて冬の冷たい空気を肌に当てた。

 

2023年を振り返る。

こういう時に書くものは、大抵雑になる。悲しかったことを書けば、そのほかにたくさんあった喜びが曇る。そういうものだから、これから書くことは全てではないし、書かれなかったことがそのまま私にとって重要でなかったことにはならない。

 

1月、谷川岳の稜線。

バックカントリースキーヤーと登山者で長い列の中で、私はいらだっていた。

7,8人ほど前の登山者が、道を譲らずひいひいと歩いている。ちらりと後ろを見れば、自分がいかに遅いかがわかるのに、自分の疲労と向き合うのに精一杯になっている。いつその渋滞を抜けたのかは覚えていない。肩の小屋に近づくにつれて、隊列は散り散りになった。万太郎山の方の稜線に目をやると、いつものあの光景で視界が占拠される。

せっかちになり、いらだっていたのは、この時に転職活動をしていたからであると思う。将来を考えた時に、私はいつまでも宇都宮の景色を眺めているばかりではいかないのを、冬の空気に感じていた。たくさん面談を申し込み、企業と合う合わないを重ねている最中に、私は冬山に登った。雪が音を吸い込んでいく。そんな中にいなければ、何かが切れてしまう気がしていた。限界が近くにあった。

 

2月、石神井公園駅の南口。

穏やかだったが、風が冷たい日だった。この日は誕生日で、東京に部屋を探しにきていた。

転職先を決め、再び故郷を離れる手筈を整え、周囲に伝えきった後だった。父母には、東京が私の心身の健康を蝕む地だという先入観があって、母は転職するとの知らせに涙を流した。

子離れできていない母、毒親、この時代にはいくつもそうした言葉が生まれているが、母にはいずれもそうした言葉は当てはまらない。ここには自分の生き抜く術はないと言い切った。そう信じるしかないとも思っていた。

石神井公園駅を少し行ったところの不動産業者と午後1時に約束をしていたが、引越しシーズンの多忙さから、1時間ほったらかしにされ、1時間弱で得られたのは、たった3枚の住宅情報だった。「もう帰ります」と言い放って店を出て、住みたい町を歩くことにした。光が丘、春日町と歩き、豊島園に来た。当時、ワーナーブラザーズのハリポタのスタジオは建設中で、壁が覆っていた。

30歳はどういう歳になるのだろうと考えた時に、楽な歳ではないだろうなというのを、昼にケンタッキーに立ち寄って考えた。生活環境の変わるストレスや、仕事の合う合わない、次の職場にいる人たちの顔ぶれ。気になる項目はいくつもあり、そのどれもが手触りがなかった。

 

3月、虎ノ門のとあるクリニック。

健康診断をしなければならず、わざわざこんなところまできた。

見上げるほど高いビル群の中にある、なだらかな坂を登っていく。見通しが悪い。都市部だけにある、街の陰。狭い道の傍の家々の先に咲いているパンジーを、嫌に懐かしく思った。体重計に乗ると、少し太っていた。

都内に戻ってから、38度台の高熱が4日ぐらい続いた。1月で近かった限界はここにきてやってきた。ウーバーイーツを頼みまり(韓国料理が多かった)、宅配サービスで食材をオーダーした。張り巡らされている流通のネットワークが、文字通りセーフティネットだった。網目が粗くて掬えない宇都宮のそれとは違う。ありがたさを感じながら、対価を介するようになっていく人付き合いに決して気持ちは明るくなかった。

 

4月、東京タワーの2階にある担々麺屋。

角煮担々麺の高カロリーゆえの遠慮のないうまみに、慄いていた。

訳のわからないTシャツを着た外国人がひしめいている。観光バスもたくさん来ている。桜はあっというまに咲いて、あっという間に散った。今年も開花は早く、その早まりなんか関係ないほどに、人々は花見を楽しんでいた。

東京は季節を感じるのに、イベントが必要な場所だなと思う。コマーシャル的なものや、祭りのような賑やかな興行か。風の弱さや強さ、蕾の膨らみによってそれを直接感知できる人間でありたい。春先、仕事は早速始まり、私はまた別の現場で汗を流し始めた。

 

5月、仙ノ倉山へ続く稜線。

山の上の台地の真ん中を、縦に1本の登山道が貫いているのを見下ろす。

遠くに仙ノ倉山のピークが見えている。冬が終わるのは地面からだ。緑が山肌の底の方から現れてきて、白と褐色の色合いを空に返す。谷川連邦一体では、ちょうどその作業が始まったばかりのようだった。

一緒に行きたい人がいたが、誘えなかった。少し前にこっちに来ていて、やりとりをしていた。いやに恋しかったのを覚えている。

仙ノ倉山の向こう、エビス大黒の頭を眺めながら、肌がほどよく温まるような日差しの下で昼寝をした。これから別の季節が始まって、空気の温度が高まり、また冷えていくのだろう。予感がした。コーヒーを淹れて、飲んだ。せっかちになった谷川岳の方は、雪がまだ残っていたが、雪が溶けて地面が亀裂のように見える光景を確かめるたびに、自分の強張りも空に帰るようだった。

 

6月、鳥海山の山頂手前。

私は雪に塗れていた。この日の前、後輩が亡くなった。

一緒に楽器を演奏したことがある少し年の離れた、元気のいいやつだった。私はその彼が大学時代を過ごした場所で、訃報を聞き、またその場所を見下ろせる場所に向かっていた。

ピーク手前、堪えられなって涙が出た。遠くに月山が見える。ここに登ったのは22年の7月で、私は当時、酷い悲しみの中にいた。それを違う角度から眺め、当時の悲しみがある程度片付いたのを知り、同時に、新しい悲しみを迎えなくてはならないことが、ひたすらに辛かった。

悲しみが解けた山形の空気には、後輩の雰囲気が含まれている気がした。植物や花が咲き乱れるにはまだ早い時期。鳥海山の中にも、慰霊の碑があった。登山から1週間後、通夜に訪れると、楽器が飾られていたが、組み立て方が間違っていた。家族の方に声をかけて、正しい位置に組み立て直した。