いちじしのぎ

生活から一時凌ぎで逃げては文章を書き、また生活に戻る人間の悲喜交交。あるいは、人生の逃避先「山」にまつわる話。

夏の終わり

槍ヶ岳に向かう少し手前、集団の中のおばさんに励まされた。「ふぁいとーー!」。

大きな声がして、上を見た。少し前を行く高齢者の登山パーティ。誰かが叫んだかはわからなかった。大きな声は集団を和ませていた。笑いながら、山荘に向かう。

周囲はガスに包まれていた。おばさんたちの姿は霞んでいた。だが、確かに励まされた。

夏の終わりだった。森山直太朗の、夏の終わりだった。

西鎌尾根に登り行き、双六小屋への分岐を幾ばくか進んだところで、すっかりばてた。気乗りしない仕事。積まねばならない努力を放棄している今の自分が、両端から自分を縛っていた。身動きが取れないのが嫌になって、槍ヶ岳を目指した。天を穿つ槍のように、私も突き抜けたい。

樹林の中を進み、滝谷の水を蓄えて進むと、弓折乗越が左に見えてくる。Cを描くように、鏡平から徐々に標高を上げていくうちに、登山者は幾度も槍ヶ岳の姿に見惚れる。私は今、何度も見惚れたその対象を目指していた。

 

鏡平を通り、双六岳に抜けるルートは、昨秋の山行で経験していた道だった。それをなぞるように、まだ夏の気配が色めきだつ草木の中を抜けていく。夏の終わり。森山直太朗の歌声を、西鎌尾根の麓に蒔いて進む。

霞が取れ、綿菓子を水に溶かしたような散り散りの雲に、覚えるのは孤独だ。私は独りである。おばさんの大きな声が刺さり、すっかり力をなくした私に刺さるのは、孤独だったからだ。当時、隣には誰もいなかった。

眼に留まった、森山のインタビューを読んでいる。孤独がインプット。山小屋に籠りながら音楽を生み出している彼が言う。図々しくあっていいと。

「さっき話した孤独を確保するっていうのとちょっと矛盾するけど、同じくらい必要なのは自分をさらけ出すことだと思います。アウトプットする図々しさを持つ。

大きな問題は認識しやすいけど、小さくて些末なことって気づきにくいんですよね。溜まっていきやすい。だから、埃みたいな塵みたいな鼻っかすみたいなものでも、どんどん外に出していく。人に話せば一歩引いて、それを認識することができるから」。

男のロマンで山小屋を購入! 森山直太朗が「ライブの後は山で孤独を確保」する理由

小ささばかりが、頭によぎる。山に向かう中で私が考えるのは、常に誰かのことだ。あの時は楽しかった。あの日の夕焼けはきれいだった。ああ、槍ヶ岳山荘はまだか。ガスが尾根を駆け上がっていく。

私の上に被さっているほこり、突然にして運ばれてくる綿毛のような追憶にいちいち振り向かされながら、足を運んでは止まってをただ続けていく。

何度目かの夏の終わりが終わった時、槍ヶ岳山荘についた。鋒はガスに隠れて見えない。外国人観光客と、遊びで来ただろう登山者らが、ヘルメットの付け方を互いに探り合っている。酒を交わしている登山者もいる。

粗末な願望や、何度も重ねた慕情やら嫉妬やらを湛えたまま、テント場にザックを下ろす。冷たい、しめった風が着物の間を通る。これはどの「いつか」になりうるのだろう。槍ヶ岳はガスの中だった。