いちじしのぎ

生活から一時凌ぎで逃げては文章を書き、また生活に戻る人間の悲喜交交。あるいは、人生の逃避先「山」にまつわる話。

みゆきさんの唄

坂を登っている。夏の始まり。22歳。白いシャツはGUで買ったものだ。札幌駅のどこかのビルに入っていた。左手にある建物に、自分の姿が映っている。惨めに思う。熱い上に体は重い。10年前。ある出版社の採用試験の会場となっていた、ホテルオータニに向かう背中は虚しかった。

帰りの飛行機では、一人で泣いていた。就活ってこんなに辛いのか。私を欲しがっている人が一人もいない。すがりたかった。見捨てないで欲しかった。

傷に何を塗っても効く気がしなかったが、涙を搾り取ったのは、中島みゆきの「ララバイSinger」というアルバムだった。ただ、愛のためにだけ。宙唄。重き荷を負いて。3曲を、札幌までの帰り道で何度も何度も繰り返して聴いた。札幌の空気は少し冷たかった。

ふと、当時を思い出す。せまいバスタブに湯を張り、肩まで浸かる。腰には少し肉がつき、およそ8年分の仕事歴がつき、友人の何人かを離し、また亡くし、ばあちゃんが逝った私だ。息を吐く。ふぅ、という音が浴室を満たす。

ただ、愛のためにだけ生きていると言おう。

みゆきさんは、何度も繰り返す。愛とは誰に向けられたものなのだろうか。これは、自己愛でもいいのだろうか。それでいい。

愛が届かないことを嘆く唄が、みゆきさんの唄だ。俗世から身を離し、心も距離を取り、足元の石くれに視線を落とさせてくれるのがみゆきさんの唄だ。精一杯の人間が、何も聞けなくなったことを嘆きながら上を向き、次に、食いしばれるようにするための唄だ。

4日ほど前から体調を崩し、毎夕熱にうなされている。医師による診断では、新型コロナでもインフルエンザでもない。仕事を休まなかった。画面上の気にかけを、心配を、7畳ちょっとの部屋から眺めながら、それを少し砕いて、煎じて飲んだ。

頑張ってから、死にたいな。頑張ってから、死にたいな。這い上がれ、這い上がれと自分を呼びながら、呼びながら。

あれから何度も、私はオータニの坂の上から、過去の自分を呼んだ。頑張れ。A社は落ちるけれど、あなたはそれで少しではないほど落ち込むが、その後8年は、決して悪くない。良いこともたくさんある。今はまだしなくていい別れもある。できることは全部しておけと欲張りたいのはあるが、ただ、歩くだけでいい。それでいい。

 

何をこんなに深刻なことを書いているのだろうとふと、我に帰る。下がっていた熱が頭の方に広がっているのがわかる。でも、である。己が己自身に深刻になれなかったら、もう終わりではないのか。せせら笑うな。取り繕うな。体が苦しいのを、狼狽えているのを、笑っているのは誰だ。誰の目だ。ある人の顔が眼に浮かぶ。「他人の不幸はおもしろい」。

とても残念だなと思う。私はこの人に、この不幸を面白がられる。燃料にされる。寂しさが流れて混んでくる。この人とは、倶に、生きられない。

呼吸が荒くなり、肉体が締まっていくのを感じた。足ばかりでなく、身体中が緊張しているのだ。ああ、敵になってしまった。硬直する。防御しようとしている。ああ、こうなってしまった。ああ。

 

思い出が、当時のそのままに、思い出されることは幸せだ。私たちはあまりにも容易く、それができなくなる。あの時はああだったと言いながら、その人と未だに関係が紡がれているのは幸福の連なりにほかならない。ある夏の始まりの時、私はそれを河川敷でみた。荒川を超えた先にあった店のコーヒーの苦味と倶に、とつとつと語られ始める不幸を、私はおもしろがったりしない。

 

変わってほしいと、ずっと願っている。優しい人であってほしいと、長いこと願っている。人を助け、振り返り、進みすぎたら少し戻り、私を映した景色を眺めて、一息ついてほしい。

エゴだなあと思う。一期一会を、自分のものにしたい。忘れられない出逢いを直感したい。長い間、温めることで紡がれる私の責を放棄できるほどに。見たことない色、苦しい顔を描き続けられる安堵を、この瞬間にほしいと思う。

なんとデジタルなのだろう。私はそれを放棄してきたのかもしれない。見たこともない醜さを覚えたのは、なにも自然だったのではないか。

人間好きになりたいために、旅を続けていくのでしょう

愛によって可能なことの一つに、誰かを葬るというのがある。あなたに残すのは愛だけで、一切の憎しみや悲しみ、怒りは、その当時の愛によって燃え盛り、残った温もりを宙に離すのだ。それが誰かを温めることをしばし願い、私は踵を返す。誰もいない、誰も景色にない荒野をゆく。

何も残らなくて良いのかもしれない。何をしたとか、何を成し得たとか、それで安堵できる物事があまりに不安定だから、私は今こうして、風邪を引いて寝込んでいるんだろう。

情に生きたのは悪くはなかった。良かったはどうかは知れない。過去を振り返る時は、こうなるのが一番だと思おう。悪くなかったのだ。ローリングの寂しさが、より深く聴けるようになるのだ。

Roilln' age 寂しさを

Rollin' age 他人に言うな

軽く 軽く 傷ついていけ

Rollin' age 笑いながら

Rollin' age 荒野にいる

僕は 僕は 荒野にいる

人生は荒野なのではなく、時々に、私は荒野に立ってしまう。荒れた土地を歩くことを迫られているのに気づいてしまうのだ。軽くていい。この傷の重みを推し量ることなかれ。他人に言ったところで隅の方で怯えている寂しさに、もう言葉を与えなくていい。

限りない愚かさ 限りない慕情

手放してならぬはずの何かを 間違えるな

近作の中で、中島みゆきは、慕情に代表されるような、慕う心を唄うようになった気がする。何を手放してはいけなかったのだろうか。憂いや憎しみ、怒りや嫉妬が巡った上の終着駅が、慕情だった。ただその終わりを夢見られたら、今のこの人生は、悔いも何も全てが報われるのだろうなという気さえする。

 

部屋にあかりが二つ付いている。手元のあかり以外は、無駄なのだろうか。ずっと遠くで点っている小さな火のようだ。耳をすまして思い出して。耳元で流れるのは、誕生になった。2020年のライブ盤。もう言葉が出てこない。

感情の渦に飲まれるとはこのことなのだろうな。これを書いている時に、このライブ盤をずっと聴いていて、この人は、本当に唄だけを唄っている感じがする。ああ、余計なもの、邪念だの、疑いだの、猜疑心だのは、あまりに意味をなさない。

あったからなんだというのか。浅く軽く広がっていく。この感じ。重たくなくて良いのだ、人生は。この積み重ねに、載せてしまったものたちが、流れていく。

 

なんてありきたりなのだと思うが、ある曲を、ある歌手を聴いてきたという年月が、私を間違いなく救っている。心の痛みや、硬直がほぐれていくのがわかる。愚かな日々を過ごしてきたものだと迷いながら、もがきながら、風邪をひきながらの日々を、癒し、温めしてくれるのは、かつてのこの日々だとしたら。曲を聴きながら、情景を脳に焼き付けていきながら。今も坂を登っている。あの頃とは違うものを身に纏って。当時とは異なる重荷を背負って。

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