いちじしのぎ

生活から一時凌ぎで逃げては文章を書き、また生活に戻る人間の悲喜交交。あるいは、人生の逃避先「山」にまつわる話。

削られた山塊

 

湯沢ICを過ぎた時に、苗場山に登った時を思い出した。今年、ここに来るのは3回目だ。朝5時半を回ったところだったか。今回は日帰り。あれ、前回は、そうだ。プリンスホテルに泊まったのだった。

紅葉の頃の来たいと思っていた、巻機山。ある人はその山域をゾウの背中のようだと言った。確かにそうだった。ながらかな山並み。谷川連邦を南に捉えていると、その対比が際立つようにも感じられる。

 

登り始めから、気持ちは妙に落ち着いていた。追い抜いた登山者たちの中で、私と同じソロは少なげに感じた。誰かと山を歩く。会話に耳をそば立てていると、「きれいだね」以外は、大抵誰かの悪口であるか、何かについての悪態の場合が多い。ブナの樹々の間に日の光が差し込む今回の山行においても、例外ではなかった。

八号目を過ぎると、森林限界が訪れ、景色が開ける。1800mそこそこなのだから、豪雪地帯だけはある。南へ西へと視線をやり、足を進めていく。

 

私が悪態をつくとするならば、それは大概において人が対象となるし、その悪態は、結局期待を寄せた自分自身の愚かさを認めたくないためのポーズだ。

言葉尻においては、それで丸く収まる。

ただ、そうはいっても、悪態について回る感情の渦巻きはそこから逃れ、頭の隅の方や、すれ違う登山者たちに重なって、私にその逸脱を知らせてくる。厄介だ。

クリアになればいいと思う。善悪、利害がはっきりと分かれ、論理的であってくれるなら、なんと楽だろうと思うが、蓋し、私にはできないと頭を下げる思いになった。

色々な時に、心や精神、体力を抉られてきた。不快な人物、振る舞い、それと気がつかない人間性の低さ。いくらでも言い立てられるような大小の悪によって、私は削られ、時に隆起した。

 

山域のバラエティに富んだこの場所を歩いていると、自分自身がどの山に属するかを、見定めたい気持ちになった。

北に見える越後三山。厳しい気象条件が、切り立った山肌を造り、影を作る。谷川も似たような山をしているが、あれは朝日岳の方はそうでもない。一方で、巻機山苗場山は、そのピークは非常に滑らかだ。山の塊が、そのまま地上から浮いているようにも見える。

でも、いずれの山も大きく映る。どっしりとしている。何も言わない。受け入れるとか、受け入れないとかいう境地にいない。ただ、ある。

削られて、削られて、その分だけ形が出来上がっていくとして、その比喩を、なんとなく噛み締められるようになってきた気がした。学生の時など幼い頃には、まだこうしたことは腹に落ちなかっただろうが、ようやく、口に含んで咀嚼してやろうと、気概を得られるようになってきた。

尊敬している人が言っていたのだけど、ある同じ選択をした「めちゃくちゃ悩んだ人」と、「あっさり利害で決めてしまった人」との人の間に生まれるのが、思索の深さだという話を聞いた。

引き裂かれるような感情、出来事、それに耐え抜いた先に何が待っているのか見通せないといった、現実が束になって襲ってきたような経験を掻い潜った先に得られるのは、それらが抉り取ってできた私自身の形であり、また深さなのだとしたら、それは成熟と呼んでいいと思う。

成長成長と日々、喧しい現場にいるから、そこで深さをどう獲得するか。

何事かに長じることは、量的拡大のほかに、それぞれの深さを獲得する行為なのではないだろうか。深めていった先に、底に当たる。その底を抜けたさらに先に、また底がある。そこを超えると今度は、てっぺんにいる。そう看破したのは、私が教わった大学の教授だった。魂は一番底なのではない。それは、二つある。

山を降りた後、禅寺に出かけた。清らかな場所を歩くのが好きだ。登山もそれを求めていきくのだが、時にただの消費的な群像に当てられて気を病むこともある。出かけたそこには、それがなかった。

悩ましいこと、ままならない事柄にうだつが上がらなかったり、囚われたりすることもあろう。小さい範囲しか収められなくとも、成熟した、凛とした大人になろう。領域はその後で良い。今の自分に、質量の二元的な判断を求めるのはやめよう。どうしたら、深まるだろうかを考えよう。成熟を目指すのだ。