いちじしのぎ

生活から一時凌ぎで逃げては文章を書き、また生活に戻る人間の悲喜交交。あるいは、人生の逃避先「山」にまつわる話。

水蒸気ひとかたまり

今週のお題「ほろ苦い思い出」

 

二人で連れ添って、景色を見に行った。6月。東北南部の有名な湿地帯は、この日だけ晴れていた。

登山が趣味だ。大概は一人で登るが、この時は二人だった。それも、好きな人だった。のしのしと前を行くその人の背中を追いかけて、森を歩いた。時に休憩を促したり、持っているお菓子を交換したりした。日差しの差す森は明るく、少しだけぬるい風が吹いていた。

ずっとこの人が好きだったが、付き合うとか、体の関係になることはなかった。私は男、この人も、男だった。私のセクシャリティは体の性に限定されないのだった。

山の中腹に来て、景色が南側に開けた。その人は声を出して、これまでの達成感を味わっていた。背中を眺め、ザックに忍ばせた塩飴を口に入れる。少しだけ水を飲んだ。

それまでも何度か、一緒に登っていた。でも好きだと告白したこともなかった。私の好意には波があるためだった。高くもなり、低くもなった。片時も頭から離れない時があれば、低い時のあまりの無関心には自分の冷酷さを呪いもした。好意が一定でなさすぎて、それ自体にも嫌悪があった。

 

高山帯に咲く花たちがオレンジや黄色の花を咲かせていた。ハイマツがみずみずしい。これからもっと緑が濃くなっていくのを感じた。山頂の手前。目の前の背中の息がやや上がる

山頂に着いた。ある程度人気のある山だから、先についていたほかの登山客がおのおの写真を撮っていた。山頂の石標を撮り、少し離れたところにいたその人に近づいた。「着いたね」。その人は返事をよこさず、スマホをいじっていた。

 

画面を見てしまった。その人は、恋人にメッセージを送っていたのだった。

 

恋人がいることは知っていた。少し前にそれを知って、いろんな系が切れた。「彼女」だった。当然だと思った。私のような人は、おそらく世間では多くないのだった。その人のような人は、いわゆる私よりは多そうなのだった。

山頂からは東西南北が見渡せた。東にも西にも、登ったことがある山が見えた。それらは何も言わなかった。山頂が雲に隠れているものがあり、こちらから見えるものがあった。ほかの登山者は連れ合い同士で「あの山はね、きっと⚪︎⚪︎山だよ」と楽しそうだった。

 

もっと高く登れる道があるなら、行ってしまいたかった。私だけが登れる、もっと高く高く、登れる道はないのかなあ。もちろんそんな道はなく、私はその人から表情が悟られない岩の上まで移動して、ゆっくりと腰をかけた。

道中に交換した菓子がまだ残っていた。口に入れると、人工的な甘みが口を満たした。なんと均一に広がる甘みだろう。味わいに深みもなく、ただ甘い。カロリーがあるから、登山にはもってこいなのだった。体の中で燃焼するだけなのだった。

 

山頂から、小さな水蒸気のひとかたまりが空に登っているのが見えた。置いていかないでほしかった。一緒に連れていってほしかった。誰もいないところに、連れていってほしかった。

その人はひとしきりのやり取りを終えた後で、私の方へやってきた。手拭いで顔を拭って、水で甘みを流し込んだ。

 

帰りの道中は全く普通だった。転びそうな箇所があるだの、山小屋で何を食べようだのと話して、山を降りた。もと来た道を引き返すルートだった。登っている最中と、何も変わらなかった。午後の日差しは森を明るく照らしたし、風はそよいでいた。

同じ道を辿っているはずなのに。別の道を歩いているようだった。山頂でポイントが切り替わったみたいだった。帰りは、お菓子の交換はしなかった。

 

お題にある「ほろ苦さ」は、下山後のゆず茶に感じたものだった。独りで夕暮れ時に飲んだそれが、甘かったのに、苦かった。あれからもうすぐ2年になる。私はまだ、水蒸気のひとかたまりにはならず、人生を味わう時間を送っている。