自分は人のことを好きになる、嫌いになるがあいまいなヤツだと思っていたのだが、案外そうでもないのかも知れない。というか、そう言うことじゃないのかも知れない。
「お?この人面白いな?」が他人に接近する性分であるし、より親密になりたかったり、端的にワッと「好き!」になったりする人は、この「面白いな?」がないと続かない。つまり、発見により次なる興味が湧かないと、私は途端に冷めてしまう。
もっと言うと、「あ、この人は他人への扱いが雑だな」とか、「あ、この人は他人への興味が薄いか、操作対象か何かと思っているな」とか、「あ、この人は割と独占欲が強めだな」とかとかとかの印象を抱いてしまおうものなら、「面白いな?」の好奇心は原動力をそれはそれは一気に失う。好奇心は私にとって「好き!」そのものなので、私はその人を愛せなくなり、朝に品川駅とかにいる有象無象と大して変わらない、みたいな冷え方をしてしまうのだ。
なんてやつだと言いたいが、その言葉を自分に手向けたところで冷えたものを温めるのは難しい。直接的に不快な思いを抱いてしまったら、顔つきまで変わって見えることがあるし、これまで好きで仕方なかったのに、一瞬にして品川駅の有象無象になりうるこの感性に、自家中毒になりつつある。クソ暑い夏の今とはまるで逆で、外は基本冷えていて、私のプライベートゾーンにいる人だけが、それぞれ特別な体温を持っている。
この寒暖差にやられないためにはどうしたらいいのかを、夜の港区で考えた。ワッ!と上がる好奇心の温度をセーブし、長い距離で考えること。他人と私には、山を幾度も超えていかなくてはならないぐらい、距離があると考えること。その間には濃淡があり、それらが模様をなし絵画的になるかもしれないこと。体温の上昇が時間的に変化しうるということ。
そう言えば、映画「メッセージ」の宇宙人は、円形文字で未来と過去を表す言語を表した。模様がさまざまありながら体系化されている様は水墨画のようにきれいで、かつ理知的だった。
円からはみ出ようとする黒い線と、一様でない膨らみとがひとつの形を得る。劇中では、たしかこの文字は動くのだ。膨らみながら変容しうる。過去、現在、未来がひとつに表現された文字は、定まらない期間がある。
この文字が、ひと、ならば私はなんと簡易な好奇心しかないのだろうと思う。怒り、悲しみがどのような黒い線を描き、またそれらが拡大して、伸び、枝のような線を描くのか。それに一瞥もくれないとしたら、なんと野蛮だろう。
ともすれば、好奇心を好きだの嫌いだのに置くのがなんとなく寿命な気もしてきた。
もちろん、好きな人が多ければありがたいけれど、それはもうこの年になれば、フレッシュなときめきや「面白いな?」では済まないのかもしれない。
蓄積された安心感や、ほだされて似通ってくる互いの体温に安堵する瞬間に、私は居場所のような感覚を得たいのだし、また大人だからこそ、そうした付き合いが可能なのかもしれないと30年間を肯定したくもなるというものだ。
じりりと細く、ある時は滲み出していくほど濃い感情を、頭の中にいる複数人の人たちは、それぞれの仕方で描いていて、それで良いのだ。これを書き始めた時には思ってもみなかった。