いちじしのぎ

生活から一時凌ぎで逃げては文章を書き、また生活に戻る人間の悲喜交交。あるいは、人生の逃避先「山」にまつわる話。

大切なもの

「人生において大切なものは何でしょうか」。

SNSでブログに書く話題をゆるりと募っている。届いていた話題のうち、寄せられた質問。私の人生で大切なもの。昨年、そうなったものがある。自作したビアマグについて書く。

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昨年6月、都内にある陶芸教室で、古くからの友人と一緒に作ったものだ。

粘土を捏ねて何かを作るのはそれこそ小学校の頃、益子町の陶芸センターの体験か何かでやって以来のことだった。

 

粘土を捏ねたのには訳がある。

私はこの陶器に、自分の苦しみを閉じ込めたかった。

 

昨年は諸々を総じていえば、苦しい年だった。

4月末。信頼を寄せていた人たちが軒並み私の元を去り、私が私自身を信頼できなくなった。なぜこの人たちを好いていたのか。バカじゃないのか。これまで築いてきた一部の人との関係、もっというなら自分自身との関係は「つもり」だったのだと知らされ始めた。

これ以降、私は自分自身の在処を考え直した。とりわけ、性別についてを。宙ぶらりんだった「性自認」というのと、本気で向き合い始めたのがその頃だった。

 

1ヶ月悩み通した。ご飯がろくに食べられないこともあったし、仕事もうまくいかなかった。寝つけないから夜更かしもたくさんした。唯一救いになったのが、メイクに可能性を見出したこと。男だろうが何だろうが、肌はコントロールできる。頼もしいことだった。その試行錯誤で精神の荒れを誤魔化そうとした。

 

持って生まれた「性」の悩みをガソリンに、言葉を綴った人たちの文章をたくさん読んだ。悩みの種をくれた人たちのことをノートに書き、渦巻く感情に形を与える作業を繰り返した。5月末、ひとまず自分の中で答えを出した。

 

「どんなきもちの時に作ったかは思い出せる。時間が経てば経つほど、そのものに対する形は変わらないはずなのに、思いとか感じ方とかの形は変わることもあるはず。そういうのがすごく愛しい」

 

友人がこう言って、私に陶芸というアイデアを与えたのは、答えを出した後だった。

 

当日、私は苦しみを原動力にろくろを回し、初めてでは難しいとされる高さがある陶器を作ろうとした。

飲むためのものが欲しかった。出した答えが間違っている可能性もある。信用していない私が出した答えを信じることは難しい。

だが、無理にでも答えを飲まなければ、前に進めないと感じた。苦しみを飲み干して、必要なものだけを取り入れ、あとは流してしまえる度量のある人になりたいとも思った。

 

およそ2ヶ月後、ビアマグが届いた。

粘土だったころからは2回りぐらい小さくなったけれど、両手で丸を作るように広げた飲み口は、私の手の形にぴったり収まった。これで夏は冷たいものを、今は暖かいお茶を飲むのが日課になった。色はターキッシュブルー。穏やかな水面のような表面は、たゆたう波のようだ。

 

正直、陶芸をして以降も悩む日々は続いた。今も解消されないものがある。

苦しい過去なんて忘れてしまえたら楽なのだろうが、それらを忘れた先に、違う格好をした同じ苦しみが待っている可能性があるとも知った。ならば、私は苦しみを跳ね除けずに、そばに置いてやった方がいいと思う。

 

友人が言った通り、当時の気持ちは今でも鮮明に思い出すことができる。だが、当時と今が違うのは、私の手元には自身の苦しみから生み出したものがあるということだ。ネガティブな感情を込めて、日々の道具をこさえるのは、ちっとも悪いことではない。

喉を鳴らして飲み物を飲むたびに、私は苦しんだ過去を思い出し、それらを人生の中に迎え入れている。自分自身を誤魔化さずに正面から悩んで答えを出した経験を讃えるのが、このビアマグだから。