いちじしのぎ

生活から一時凌ぎで逃げては文章を書き、また生活に戻る人間の悲喜交交。あるいは、人生の逃避先「山」にまつわる話。

晴れた休みの日

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重たそうな雲が晴れ、西陽が駅前にのぞき始めた。

昨年末に貰った茶色のレザーのカバンには、日用品が詰め込まれている。シャンプー、ヘアクリーム、井草を底面にしたスリッパ、蛍光ペンが2本。光が丘駅スターバックスで、一番大きなラテを飲んでいる。手元には西加奈子の『くもをさがす』がある。多くの人が行き交っている。

 

東京に戻ってから2ヶ月が過ぎた。働くことにも少し慣れ始め、あの、東京での暮らしが帰ってきた。

 

気だるい朝だった。早く起きるのが億劫になったことを感じる。街を行き交う中で山を拝む生活から遠ざかった。太陽が落ちるころに、5階にあった食堂で社食を食べている時は、好んで窓側に座った。男体山が見えるからだった。

土曜日は雨が降った。山行きは断念する必要があったし、私がその気分になれなかった。数日前に書いた手帳のメモには「一切経山」に行くと書かれていた。車中泊をせよ、とも。

結果、天気がそうはさせてくれなかった。郡山の天気を夢想しながら、遅い時間に起きた。顔を洗い、いつものように髭を剃り、洗濯機を回した。家で昼ごはんを済ませてから、本を読みに外に出たのだった。

 

少し前にある人の仕事を手伝ったお礼に、スタバのチケットをもらった。それでドリンクを頼んだ。大きなラテはオーツミルクに変更し、ホワイトモカのシロップを入れた。大きなラテを飲みながら西さんの著作を読むうち、雲がちぎれて消えた。

風は太陽の光を受けて温まり、ズボンの裾をなぞるように少しだけ吹いた。多くの人が私の前を過ぎていった。

 

社食で山を見ていた時、私にはこの時間を自分で眺めていた。なぜか、眺めている私自身が、私そのもののように思われない瞬間が、何度かあった。その度に、登山を計画していたのかもしれない。山では自身を偽れないからだ。

去年の今ごろは、東北にいた。「今年は雪が多かった」と山形の朝日岳の方を見た時の風を覚えている。その後で長い距離を運転した。

誰かが私を通り過ぎていくのが怖かったし、だから、助手席にずっと座っていた人がいたのがうれしかった。その人の人生を考えることなく、私は私の安心のために、その工程を位置付けていた。

浅い息をしていた。心の底から息を吸うことを、私は当時わからなかった。隣に見知った人が、愛する人がいなければ、それは不可能だと決め込んで、その瞬間を待ち望んだ。旅の途中もそうだったのかもしれない。愛しい時間であることには違いなかったが、無理に、この瞬間がそうなのだと思い込もうとしていた。

 

光が丘をかける風に、朝つけたコロンの香りが混ざった。昨年はそれを知ることはなかった。当時つけていた香りは中身が尽き、なくなってしまった。LAで孤独に働く女性が、黄昏にふと前の人を思い出すみたいな、ロマンチックなテーマがついていた香りだった。ミントが最初に香り、徐々に汗と一緒に香りが深くなっていくのが好きだった。

今は、その誰かを思わない。庭にある花を愛でるような香りを中心に、苦いシトラス、ローズとシダー、それから独立の香りが手元にある。LAの女性がまとえば、物思いに耽ること自体を考え直させるような香りだと思う。

 

前の晩に天気予報を眺めていたら、めがけていた箇所は曇りか雨だったから、山に行くのをやめた。家の周りを散歩しながら、出かけた。街は蒸し暑く、ベビーカーが行き交っていた。

駅前にある洋食屋でハンバーグを食べ、新しく見つけた店で商品を吟味し、電車を乗り継いでデパートに向かった。ハイブランドの階層を抜け、また新しい香りを仕入れた。

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なんという自由。私には鍛えられる時間が与えられている。夜風を浴びながら梅酒のロックを嗜めるようになった。夜、電話がなるのが怖くて何もできなかった時間、スーパーのお勤め品をさみしくつまむ時間は過ぎていった。駅前を通りゆく人々のように。

お風呂に入ったら、山の計画を立てる。いきたい山、興味がある山を調べて、目的地までの道のりや準備しておくことを、あらかた(これが大事だと思うのだが)決めておくのだ。

今年はどこで何を見せてもらえるのだろうか。尾瀬の香りを思い起こしながら、私は生活をそばに置きながら、助走を決め込んでいるのだ。