いちじしのぎ

生活から一時凌ぎで逃げては文章を書き、また生活に戻る人間の悲喜交交。あるいは、人生の逃避先「山」にまつわる話。

まっすぐな道を行く

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東川町をつらぬくメイン通りは、どこまでも伸びて入るようだった。いつぶりかに乗る日産。運転を変わってくれる人は、今回はいない。乾いていてわずかに温度がある風が車内を抜けていく。

出張で札幌に用事があり、休み重ねて旅に出た。旅をする目的に「登山」を重ねることかできるようになったから、目的地は旭川になった。自分と同じ名前の山に登る。夢に見ていた。

山頂はガスに包まれていた。水分を多く含んだ外気が頭を覆う帽子を濡らす。本当は、ここで帰るはずだった。物足りなさから、反対側に下りることにした。富士山の須走のような砂地を下り終えると、ガスが晴れた。以降、私の視界を支配したのが、大雪の山容だった。

 

渡渉した先の草原で、キタキツネに遭った。まだ子どものようだった。カメラを向けても怖がらず、大きくあくびをしてから、地面の草をついばんでいる。草紅葉が進む大地に、わずかに風が吹く。私たちはしばし風に揺られた。キツネはそのまま、草原の中に消えていった。

 

黒岳の山頂に人がたくさん集まっていた。北海岳のピークを踏んでから引き返すわけでいたのに、あまりに景色が綺麗なものだからと、先を行くことにしたのだ。

なだらかに、それでいてコントラストのはっきりした山並み。足元では、盛りを終えたチングルマは点描のようだ。旭平を白く染め上げる。

 

旭岳を通り抜けた源水は、清らかに体に落ちた。知り合いから、あまくて丸い水との前評判を聞いていた。その通りだった。口に残る丸い感触。ここに暮らしていないことを悔やませる。この水を飲みながら生涯を送るのはすばらしいことだろう。

 

下山した次の日の朝、おかゆを食べた。かぼちゃと水餃子。少しの漬け物。よい作り手に選ばれた茶も隣にある。

ひとくちごとに胃が温まっていく。おかゆに覚えるわずかな出汁の風味。付け合わせの漬け物を少し口に入れ、塩味を思い出す。水餃子の肉の旨みも淡い。噛んで、それを引き出していく。その繰り返し。ほどよいところで、お茶をすする。白毛猴。甘く、ほのかに苦みがある一口。

 

よき作り手でいたい。料理をするのは、その一歩なのかもしれない。お粥を準備する店主も、おにぎりを握る人も、同じ目をしていた。透き通っている。何者かを見据えている顔。食べさせるために働いている人の顔は、どうしてああも私を惹きつけるのだろう。

食べるものを作るとは、なんで尊いことなのだろう。稲穂が刈り取られた田園の名残に感じるのは、そんなところだった。東川町の透明なもてなしに、私はすっかり整えられた。

 

都内に戻ると、きっとこの感情を忘れてしまうと思うから、ここに記しておきたい。北海道に感じられないのは、私の邪な気持ちであることが知れたからだ。

 

たった4年だった。ほんのわずかな時間であるばかりか、私は北海道そのものを志したわけでもなかった。人に焦がれてこの場所に辿り着いたし、だから、自分の人生を生きている感じがしなかったのかもしれない。当時、ここで生き始めた当初は、感触の虚しさが何度もやってきた。

それを一度壊れた。私は焦がれを一度諦めた。事の終わりを思い知ったのは、大雪からの帰り道だった。それを受容して以降が、私の人生だった。

 

学生時代を捉え直しながら、札幌に戻り、かつて過ごした場所をわずかに巡った。右も左も分からずに入居した学生寮の前を通る。かつて暮らした部屋には誰かが住んでいて、世話になった店は他のそれと入れ替わっていた。ただ、そこにあることは変わりがなかった。

とても恣意的なものではなかった。繋がりたくても、それが叶わない経験もしたのに、こうもまだ、私の先から関係の糸が伸びているのが不思議で仕方ない感じがする。北18条の創生通り。

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無念さや心許なさ、自分が愚かであることに苦しい思いをしたことも思い出した。簡単には死ねないなと思った。未来の私自身が、この時を味わい直すかもしれないからだ。

取り止めもない散文がまとまる時、私は今はまだ無い落ち着きを手にしているのかもしれない。北海道は、20歳そこそこの己をただ、放し飼いにしてくれた場所だった。

 

好きも嫌いも遠くに追いやられた先でもまだなお、存在する強靭さ。二者間で生み出された、温度のある感触が、景色の向こうへ向こうへと伸びている。東川の道のように。札幌駅に続く縦道のように。北大の構内のように。

遥かに遠いのを受け入れながら、その道のりに愕然とはしない。それはそうだろうという諦め。道中には私を癒す店がぽつぽつあって、私はそこでしばし休むことができるのだとしたら。帰りの機内で、当時聴いてきた曲を聴いた。それを噛み締められるまでに、10年かかった。