いちじしのぎ

生活から一時凌ぎで逃げては文章を書き、また生活に戻る人間の悲喜交交。あるいは、人生の逃避先「山」にまつわる話。

違う道を通って、同じ場所に着きたい

東京の路地裏は、おしなべて別の誰かの生活路だ。私が普段通らない道を歩くのが楽しいのは、その道を歩いて生きる別の自分を想像するから。

このエリアに、この店の近くに、住んでいたらどんな暮らしを送っているのだろうか。建ち並ぶアパートの一室の電気が付いていたら、そういう想像を道すがらに重ねていく。

 

人と一緒に歩いていくとは、どういうことなのかを、江古田で考えた。

 

5年ほど前に勤めていた会社で出していた雑誌。そこで取り上げた店に、パンを食べにいくことにした。なんでも、気難しい店主が営んでいるだかで、私は自分で取材に出向くのためらった(結果、別の編集者が取材し、文章を書いた)。

どんな風に取り上げたかは記憶にない。が、なんとなく嫌だったから取材に行かなかった焦げのような苦さが自分の中に残っていて、それを払拭しようと思い立った。昼ごはんを食べ、おやつというには遅い時間だった。パーラー江古田。その店のカンパーニュが、うまいらしかった。

出てきたのはカンパーニュに分厚いパテ・ド・カンパーニュを挟んだサンドイッチ。野生的なカンパーニュは肉感が「ゴロゴロ」といった感触で、言うまでもなくパンとよく絡んだ。ラテを頼み、啜りながら食べた。

隣で、関西弁の女性二人が、進路について話をしていた。一人は転職をする気でいるらしく、それを機に大阪に帰るという話を時折、言葉を選びながらしていた。もう一人はそれを聴き流しながら、なんとなく面倒そうにスマホを覗いたり、テーブルに戻したりを繰り返している。

転職したい一人の方が言った。「25歳でさ、8年ぐらい付き合っている彼氏がいてさ、私当時は“勝ち組だ”と思ってたんだけど」。

30歳になって、結婚だ、出産だをしたくない。私の思う30代はそうではないと言っているようだった。もう一人話を聞くふりをして聞いていない。ライフプラン。思い通りにならない人生の選択を、すっかりパンを平あげた後の余韻で、その人は吐き出し続けた。

隣にいるのが辛くなり、早々に会計を済ませて店を出た。練馬は曇り。家までは3kmぐらいの距離だ。歩いて帰ることにした。

二手に分かれている道をいくつも通ってきた。分岐。一つだったものが二つに分かれ、それぞれ別の方に進み、また枝別れてしていく。隣にいたあの二人にも、分岐が待ち構えているのかもしれない。なんとなく、予感がした。

 

違う道を歩んでいたとしても、互いに好みや嗜好性が異なっていても、同じものを見ていると信じていたかった人がいた。

 

それが決定的に違うとわかるタイミングは訪れなかったが、結果的に違っていたのだろうなと思うところまできた。それは、分かれて進んだ先の景色の違いと、その違いを受け止め続けてきた時間が誘った地点だ。いくら後ろを振り返っても、同じように歩いていた道はもうどこにも見えない。

 

ネガティヴなしみったれに侵されているのでは、決してない。そういうのは私の人生を救わない。人間やってりゃいつかは身に迫るものだとして、抱えながら水分を抜いた。

瑞々しくなくていい思い出もあるが、そういうのが私の現在に添えるものごともある。発酵している。それ自体の旨みはなくとも、別の旨みを側から育てられる存在に変わる。そういう素材になりさえすれば、呪いにも、憧れにもならないで済む。

雨が降ってきたので、練馬の駅からは電車で帰ることにした。花屋でオリーブを買った。親しい人と那須でかった花瓶が手持ち無沙汰だったから、ちょうどよかった。ここ2日ほどの休日で、心身ともにほぐれているのが心地よく感じる。いい感じだ。とても。