いちじしのぎ

生活から一時凌ぎで逃げては文章を書き、また生活に戻る人間の悲喜交交。あるいは、人生の逃避先「山」にまつわる話。

人肌ぐらいに

Open Arms Policy

昨日の日記は元旦の夜に投稿していて、だから全日空の事故の件は全く知らなかった。何度もテレビに流れる輪島市の様子に胸を痛めていたら、羽田での一件を知ることになったのだった。

この混迷をどう受け止め、咀嚼すれば良いのかわからないまま、正月休みの最終日を迎えている。相変わらず朝がきて、起きてコーヒーを淹れ、プロテインを溶かし込んで胃に流す。起きぬけ、温度のない体に暖かい飲み物が流れていくのを感じる時に、大げさでなく、生きているなあと思い直し、なんとなしに活力のようなものを感じる。
 
初詣に行きたいのだが、目星をつけている場所はきっと混んでいるだろうから、車で別の場所に出かけようと思う。家の掃除をして、実家に帰っていた時にたまった埃を一掃し、生活ができる場所に仕立てていく。

遠地で災害が起こった際に、何かを迫られているような感覚になる。漠然とまとめてしまえば、それは「気分が落ち着かない」のだろうし、「どこかざわついた感覚が続く」と言えそうなやつだ。遠隔地で起きている惨事に、どう向き合うのか。
 
実家のこたつで、元日からずっとNHKを流し見していたのを時たま止めて、ご飯の準備をした。おせちの残りものを、大皿から少し小さい皿に取り直して、家族の食べる分だけの餅を焼く。

湯気が上がるお椀を茶の間のこたつに並べて、父と母と共に被災地の様子を見ながらご飯を食べる。その後も、両親は帰ってくるなり「どうなった」と声をかけてくる。
日常を確かに送ること。きちんと、ではなく、確かに送ること。朝起きて、ご飯なり湯なりを体に入れてあたため、関心を払いながら、時に心身への情報を遮断して、回復すること。

元旦に、「遊び」について調べていたら、ロジェ・カイヨワ*1という研究者が、日常から分離しており、結果が不確実で、強制されない活動で、独自のルールを持つことを「遊び」の特徴に挙げていた。なんとなく、休むことも、似たような性質を持つのではないかと思う。

 

東京に入るなり、情報の多さにやられている。聞こえなくてよい音があり、広告がありで、不要か必要かの判断の間に、ずけずけと入り込んでくる。

それを自然と許容しない方が良いのだろうなと思う。情報の遮断と受容に対し、まあこれは職業柄ではあるけれど、より敏感でありたいと思う。


以前、職場で一緒で同じタイミングで転職した先輩の記者が、ジャーナリストの「惨事ストレス」について記事を書いていた。

ストレスに対して敏感でありたい。これを見逃すということは、私自身をまるっと見逃すことだろうと思う。

圧力がかかる状況はやってくる。のだとしても、それを書き留めておくような、微細な、つまらないかもしれない営みを、今年は確かにやっていこう。きちんと、ちゃんとではなく、これも確かに。「あるべき」の精神ではなく、「やることをやる」の精神で。

d4p.world

年末の会社で、ノースリーブの格好をして打ち合わせをしている人がいるのを見て、同僚が「変温動物なんですかね」と笑っていた。

私たちは恒温動物で、体温の上下に弱い。すぐ熱は放射できないが、何かにくるまったり、安全でいれば、人肌ぐらいには暖かくなれるし、両腕が広げられる範囲なら、その環境を分けてあげられる。2024年は、常に少しだけあったかい状態でいられるようになりたい。