いちじしのぎ

生活から一時凌ぎで逃げては文章を書き、また生活に戻る人間の悲喜交交。あるいは、人生の逃避先「山」にまつわる話。

公園を駆ける

光が丘公園を走ってきた。7km弱。

就業して初めて、会社に一度も足を運ばずにフルリモートで仕事をした1日だった。この過ごし方をある程度想定して家具なりを揃えたから、仕事は快適だった。好きな音楽をかけて(大抵は自然音を垂れ流している)、好きな飲み物を側に置く。今の時期は寒いことがややあるくらいで、あとはちょうどいいのだ。

夜になって退勤処理をして、夕ご飯を作る。なすの揚げ浸し、ジャガイモをアンチョビとオリーブオイルで絡めたやつ、納豆、無印の即席のスープに雑穀米。鬼滅の刃の最新話とDr. Stone(高校生に文明を作らせるファンタジーの作り込みに毎度驚く)を流し見て、ふと思う。「今日、全然歩いてねえ」。

タンスに眠っていた山と道のショーツとタイツ、パタゴニアのフーディニを羽織って出かける。ジッパー付きのポッケにスマホとイヤホン、胸のチャックに鍵をしまう。

 

夜の都内を走るのは、実に7年振りだと気づいたのは、光が丘公園沿いを走り始めてすぐだった。イヤホンから「アメリカのポップソング」をステーションでシャッフルさせていたのだが、Kelly ClarksonのBreakawayが始まった時に、天を仰いでそう思った。

 

木々で塞がれている夜空には、強く輝く星ばかりが見える。

7年前は江戸川区篠崎にある都立公園の外周を走っていて、その時はこの薄暗さを呪うばかりだった。「東京はやっぱり星が見えないんだ」。諦めたように前を向いて、等間隔にある街頭の光を追った。

これからどうなるのだろう、出版でちゃんとキャリアを積んでいけるのだろうか。営業の橋本さんのように本を愛し、届ける力がつくだろうか。地下鉄に揺られる生活を始めたてのころは、ため息ばかりをついていた。それが漏れないように、走るたびに顔を抜けていく風圧で口に蓋をしていた。

7年。ずいぶん図太くなったし、都会を呪うこともしなくなった。その後4年も経てば地元に戻るし、それも結局は合わないと気がついて帰ってきたのだ。

無駄だったとは思わない。思わない方がいい。途中にあった物事は無駄なものはほとんどなかった。無駄といなして吐き捨ててしまったら、人を受容することができなくなってしまう。今はそれになんとなく勘づけている。

 

あの時とほぼ同じように等間隔の街灯を縫うようにして走り、公園内にあるトラックを、今日は1週だけした。

バスケの練習をする一人の若い男性や、テニスサークルの大学生、なんで歩いてるのか見た目ではわからない中年男性が夜に溶けながら公園にいた。それらを見かけては忘れ、足取り軽くアスファルトを踏みつけて進んだ。

 

当時、好きだった人のことを思い出した。一時的に大きな影響を受けた人だったが、今はもうただの思い出になったことに安心した。

未練や嫉妬、羨望のような感情で振り返ることがないように努めた。都内に越してきてからレンタカーを借りて遊びに行った帰り、飲まずに帰ろうとすると(当時からその努力は続いていた)「素っ気ないんじゃないの」と突かれたが、大した抵抗もせずに「そんなことないよ」と返せた自分を、相変わらず星の見えない夜空をあおいで今になって少しだけ褒めた。

 

苦しさも楽しさもなるべく平等に享受し、記録し、その糧を解釈する時が来るのを待とう。走りながら考えたことは、これだった。

まるで登山、とは言い過ぎかもしれないが、また一つ、大好きな山登りに重ねるこうした観念的なレイヤーを手に入れた今日の晩は、なんだか特別な気がしてならない。