いちじしのぎ

生活から一時凌ぎで逃げては文章を書き、また生活に戻る人間の悲喜交交。あるいは、人生の逃避先「山」にまつわる話。

生活のマストを外す

ふと、思う。生活の中に「マスト」が多すぎる。

仕事も含めて、みな当たり前に使う「マスト」。MUST。エムユーエスティ、マスト。英語で習う、命令形というやつ。使命や宣言の意味も帯びる。力強い言葉だ。

ああでも、これ、要らない。私はそういう使命感に疲れている。というか、毒されている。なんでもかんでも、マストがつくようになってしまったのを今日、自覚した。

洗濯をせねばらならないし、トイレを洗わないとならないし。いつの間にやら埃がたまる床を掃除せねばならないし。郵便物を出さねば、出かけねば、運動せねば。

はいはい、全部にマストがついている。

マストが英語だから、英語で考える。I must do laundry, I must clean the bathroom, I must clean away the dust on the floor, I must post a letter, I must go out, I must do some exersize. わーーめっちゃ多い。

 

これほどまでmustをつけるともはや、使命でもなんでもなく、ただの縛りに成り下がってしまう。使命感を動員しなければ成立しない生活なら、それは生活と言えるのか。

趣味もそう。登山に行けないのを悔やんでいても仕方がない。私が平日に自分を労わらなかったせいだ。趣味のために、体と心の健康を維持しなかったためだ。で、それは平日のマスト疲れに起因しているのだと思う。

もっと自由にいき「ねば」。これも命題になる。

使命感はいわゆる「ウィルパワー(意志の力)」をすり減らす。生活のあらゆる工程にそれが付随すりゃあ、それは疲れるだろう。あらゆる行為から、マストを取る。なにも、私は命題の奴隷ではないのだから。

無印良品で買ってきたクッションを膝の上に置いて、椅子の上でコーヒーを飲んだ。音楽も止めて。聞こえてくるのは、外からの音。車やバイク。隣の部屋の帰宅音。ぼーっとする。それで気づいた、あ、これ、マストになってないじゃん。

枷を外す。マストでなくてよいのだ、何事も。シビアにならなくてはいけない場面が出てくるのはわかる。そうでもしないと乗り切れない場面があることは、わかる。

だが、あらゆることをマストにする必要はない。安易にその言葉を引き入れるな。命題の効果は強い。自家中毒にならないほうがいいし、精神力を食う。

 

マストの反意語を考える。must notではいけない。Do not have toだ。私はto以下を所持していない。私の近くに、to以下はない。距離を取る言い方をしよう。心身ともに。私は、ただ洗濯をして、トイレをきれいにしておこう。床を綺麗にして、手紙を出そう。ただ出かけ、ただ運動をする。

ただ、やるのだ。命を使うだなんて仰々しく意気込むと、生活に重い荷物を背をわすハメになる。さあ、荷を下ろすのだ。生活は私のもの。使命感のものではない。さあさあ、だんだん体が軽くなってきた。