自分らしく、と言われる。
全能であればいいのだろうし、自信を持てればいいのだろうし。20代の中ごろまで、ずっと言われた。「自信を持ってね」。自信がある人は違うなあと思った。
私は自信を身につけてこなかった。それ自体を欲しいと思ったこともなかった。
世界にないものを求められているようだったのだ。自信なんて、あろうがなかろうかじゃないか。泳ぐ目の後ろで、頑固さが居座っていた。
そうこうしているうちに、たくさん失敗し、たくさんの圧にさらされた。ある人は私を褒め、ある人は冷たい笑いを向けた。その度に私は一喜一憂し、一喜一憂するごとに思い描けることが増えていった。
不能であることを、恥じながら生きている。でも、アイデンティティは何事かへの不能の距離と思っている。
私はいろいろなことが出来ない。早起き、いらだちを諌めること、おもしろい企画を考えること。理想とする物事は、必ず遠い。遠くにあって、私にあるのはその未到達であることへの後ろめたい実感だ。
しかし、その苦味をとても現実的だと思っている。身体がそう、反応する。気分が塞げば、体は重たくなる。疲れてスマホばかりを見る。意味のない広告の侵犯を許す。
それが堕落していると断じるのは、それを裏付ける理想があるからだ。私には理がある。思い描く。描いた理と今との距離の間に、もうすでに私は居る。はたと気がついて、重たい体で今を生きてる。
ロールモデルとは、こうした考えに基づいて生まれる。ロールモデルを生むのは、彼彼女自身ではなく、常に憧れを持つ人だ。私は憧れ、不能を思い知ることで、私独特の距離を得る。足りなさが、自分らしさだ。
そうでなければ、飽きてしまうだろうと思う。これほど一緒にいる私が、私に関心を払えるのは、私がますます自分の距離を得ているからだ。不能の思い知らされによって絶えず生成されるうしろめたい果てしなさの中に、私の居場所が立ち上がる。
だから、恐れるな。私を立ち上げろ。その距離の中に。自分らしさとは、不能との距離である。