やり過ごしていたはずの濃さが息を吹き返した。地下をモグラのように走る大江戸線の中で。この車内の誰もが知らないであろう名前を、ただ私の頭の中で繰り返す。
嫌いでありながら、この上なく好ましいから、私はその人と会えていない。
顔を見て、息遣いを感じて、同じものを食べるその時々に侵入してくる存在の感覚が、私の頭の中にある濃さを凌駕することを分かっている。凌駕された記憶の集積は、存在を捉え直すように大きくなろうとするだろう。好きも嫌いも巻き込みながら。これまでが悉くそうだったように。
誰か1人に捕らえられ、その対象のことばかりを考え続けられたら良いなと、何度思ったかわからない。頭の中の濃さは私の日常を侵犯するように立ち現れては、霧が晴れるようにいなくなる。
立ちこめる霧の中で死後を感じたのは月山の中だった。私は頭の中でもひとりになろうとする。
昨年はそれが苦しく、現実が可能性を有していないことに腹を立てた。幾度も山を歩いたその先々で、近さと遠さを同時に思い知った。黄昏だけが、色濃く私に迫る季節だった。だが、私は温まらなかった。瓦解した私は傍にいてくれた人物の生命を貪って、どうにか生きた。
生きた。その凹凸が楽しみではなく、苦しみは憎らしさで形を得ているのを、今更悔やんだりしない。私はまだ追いかける背中を有している。つまらない日常、遠すぎるそれらの重なりを知り、あるいは知りすぎて頬が強張るとしても、それをただ見つめることが出来るようになった。
ある出来事を経て、ありもしない事柄がありもしないことなのだと、文章はそのままの通りを表すのだと分かった。理解した。そうなのか。夢見る味わいを捨てたのかもしれないが、その代わり、味のしない現実が失せた。
思い描いた幸せは、なんども丸めては広げ直すうちに濃くなり、ヨレヨレになって来た。私はこの未練がましい傍の私らしさを抱えたままこときれるのだろうか。
いよいよそうなるのだと分かった時には、ちゃんと言葉にしよう。デジタルが理解できない人間のどうにもならなさを、AIが、あと1000年かかっても理解できない人間の留まり、一生をかけてなせる逡巡の奇妙さを、頭のいいやつに読ませてやるのだ。