いちじしのぎ

生活から一時凌ぎで逃げては文章を書き、また生活に戻る人間の悲喜交交。あるいは、人生の逃避先「山」にまつわる話。

老いる

「老い」と共に生きていくしかない。諦めのような感覚で正月を迎えた。

決定的だったと今になって思うのが、昨年秋、祖母が他界したことだ。ばあちゃんはゆっくり老いていった。孫の名前を時々忘れたまに思い出すのを、その割合を少しずつ逆転させながら生き、最終的には孫だか誰だかわからなくなって死んだ。

ばあちゃんは最期まで、見た目こそ「ばあちゃん」であり続けたけれど、中身はゆっくりと私から離れていった。きちんと時間をかけて別れを積み上げていった。この遅さこそ、老いなのだと思った。

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正月に実家に帰った。

ばあちゃんの部屋は、まだ遺品で埋め尽くされている。レンタルされていたベッドが姿を消して以降、部屋の床はクローゼットだのにしまわれていた洋服が捨てる袋に詰められていたり、散らかっていたりする。タンスはそのまま、この時期電源が入りっぱなしたエアコンは、もうしばらく使われていない。「もうばあさんのご飯を作らなくて済むわ」。せいせいしたような顔で母は仏壇に手を合わせていた。

そんな母がのんびり雑煮を作っているのに目をやると、自分の知っている姿より少しだけ腰が曲がったように見えた。父親の顔のしわは少しだけ深く、顔の肉はふたりとも少しだけ落ちていた。

話しぶりは変わらない。新しく家に迎えた猫を愛でる声の高さも。ふたりして「猫ばか」であるところも変わらない。老いだけが、何にも邪魔をされずに確実に訪れていた。

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鏡を見る。肌のキメは徐々に失われ、ほうれい線の窪み方が両親に似てきている。私の体にも確実に、老いがやってきている。

この不可逆性にこれまで目を瞑ってきた。私は顔に影を落とし始めているこの現象を、ばあちゃんが命を終えるまでに培ってきたものと同じものを、自分に感じ始めている。

日々起きて寝てを繰り返すだけなのにやってくる物事を、寛大に受け入れる準備を始めたい。「あの時は良かった」に終止符を打つ。そのために引き受けるのが、老いなのだろう。2023年は老いを意識して、また生き始める年になるのかもしれない。