いちじしのぎ

生活から一時凌ぎで逃げては文章を書き、また生活に戻る人間の悲喜交交。あるいは、人生の逃避先「山」にまつわる話。

ゴールデンウィークに、伊香保温泉に行ってきた。

温泉地に一緒に行けるバディがいるのっていい。行き先もなんとなく決め、旅館を決める際も細かい条件を話し合うのでなく「なんとなくここがいい感じ」で決めれる気軽さがあり。無駄な時間がないようにキツキツのプランを立てるのではなく。アクが強すぎるスポットにも付き合ってくれ「なんだこれ、意味わかんねえな」と笑い合える。

こう書くとバディは都合のいい人のように聞こえるだろうけど、きちんと「No」と言えるところがめちゃ信用できるのだ。「ダメ」と言うのを躊躇わない。価値判断の閾値がちゃんとある。はっきりしすぎているとお互い譲らない点が多すぎてぎくしゃくするのだろうけど、バディはバランスがいい。気がいい奴なのだった。どこまでも。

伊香保温泉は、明治時代に興ったという石畳街で有名な温泉地。濁った湯が特徴と聞いていた。結果的に旅館のお湯はそうではなくて、効能も「これだけ?」という感じで拍子抜けしたんだけども、お風呂は貸切で他の客を気にしなくてよかった(今の時世では少なくないストレスになる)。

露天風呂は山のヘリにあった。湯船からカエデなんかを見上げていると、まだ春になったばかりという感じ。関東平野のような濃い緑はやって来ていないようだった。夜風がぬるっと肌にまとわりつくようになるまで湯船につかる。

こういう温泉旅行って、いつまでできるのだろうなと考える。個人的にはいつまでもやりたいのだけど、異動だの結婚だので「会いにくくなった」後、人の関係性ってどう動くのだろう。今のコロナ禍だ。距離が遠いことが致命的であるように思えることがある。

そんなものは取り越し苦労だと、やれやれと両手をあげる自分もいるのだけど、果たして本当にそうかとむしろ疑惑のもやは濃くなっていく。新幹線に飛び乗って会いに言ってしまうなんてお金の力でぐいと解決するのも「緊急事態」だからとブレーキがかかる。

人生がそれぞれの地域で完結しながら進んでいる感じがしてしまう。湯に浸かっているときには、そういう取り越し苦労からはおさらばできる。やわらかく流れ込む湯の音に文字通り身をまかす。湯けむりの向こうにいるバディも同じことをする。

感染拡大が社会を脅かすようになってから「結婚しました」「子どもが生まれました」と立て続けに報告を受けた時には、めちゃくちゃおめでたいのだけど、自分の時間が止まっているような気がしてしまう。これを拒みきれない。

人生が進んでいないような気がする。止まっている。毎日仕事に行っては遅くまで原稿とにらめっこして、帰ったら自分だけの一人分の夕食を作る。いよいよそれが虚しくなるのだが、腹は減っているので、仕方なくケトルで湯を沸かし、フリーズドライのスープのもとをふやかすしかない。

 ここで暮らしていく、という場所を見定められない。一緒になれる人を見つけ、ともに生きていくための誓いをし、それを役所に届けて公的なものにする。なんと地に足がついているのだろうと思う。

温泉に浸かっていた時の安堵感で、人生をひたひたにしたい。バディも男だから、風呂の中ではさまざまな話をするのだけど、交わらない人生が、この瞬間だけは誰のものにもならずに湯の中に溶けている感じがして不思議だ。ずっと、というわけにはいかないのだが。のぼせてしまうから。

旅館のご飯も美味しかったし、お酒もおいしかった。旅館で飲む酒は少しの量ですっかり酔わせてくれるし、夜はたっぷり寝れる。卓球もした。次の日は帰るだけというお手軽な旅行だった。帰り道で何をするのかも、気の向くままだ。

計画や締め切りに追われない関係というのは貴重だ。帰りに立ち寄った古びた商店街。お香屋さんによって、香り付きの線香をいくつか買った。

この香りとともに、旅行のありさまを覚えておこうという欲もあった。手に入れた香りは「緑茶」。苦いような甘いような、汚れたものを寄せ付けず清らかであることに忠誠を誓っているような、少し頑固な香りだった。