いちじしのぎ

生活から一時凌ぎで逃げては文章を書き、また生活に戻る人間の悲喜交交。あるいは、人生の逃避先「山」にまつわる話。

正直に生きることだ

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新年早々の地震のニュースに、気持ちが持って行かれている。それぞれの仕方で「被災」した人々が画面の向こうにいる現実を、あまりうまく飲み込めない。かわいそうだなと独り言を言う前に、Yahoo!基金があったので、少額をそこに寄付をした。

今年は思ったことを素直に書き出すことをやってみたいと思う。いつも、自分の中で声がしていた。「意味があるのかい?」といった類のやつだ。大概、それは親しい人の声で響くことが多かったけれど、よく考えてみたら、そこまでその人が私に関心があるかどうかも微妙なところですらある。ああこれ、あまり面白くない話だ。

 

毎年年始を迎えるまでに慎重する手帳に、今年の目標みたいなものを書き込む。健康に暮らそうだの、いくら貯金しようだの。あとは、たくさん山に行こうというのも。

それと、いい加減、私自身に正直になりたい。2年ほど前に、自分のアイデンティティの面で「私はこうだ!」と決めて込んだ部分があったのだが、そうと決めて顔を上げ、目の前に現れた人には際しては、決められている部分があまりになかった。

その人への遠慮や気遣いやらを止められず、「ああ、これはちょっと嘘ついてるな」といった状況にすらなった。それにひれ伏すしかない時が、まあまああった。

それをしないことが「正直」なのかはまだ定かではないにせよ、嘘をついているなという感触は生活に尾をひく。ずっと苦いなにかが奥歯の奥に染み付いている感じがする。

それは、正直な生き方ではないなと思う。

自分の心が砕かれるとか、嫌われて関係が終わってしまうとかの恐怖に怖気付く前に、いつもの対応として脊髄反射的に薄い膜のような嘘をついて、取り繕う。自分自身を守とかいう意識はなく、もうただ、普通にやってしまっている。そういう態度が、私自身を正直でいることから、遠ざけてしまうんじゃないかと思う。

正直ではないことは、自分の拠り所を無くすことなのではないかとすら思えてきた。そうして人生のある側面で迷子になってしまうのだとしたら、もうそういう歩き方はしなくてもいいのではないか、私よ。

心身ともに、まだそうした凝り固まった態度には、ストレッチが効くだろうか。間に合うだろうか。少なくともそうと信じて、正直にあろう。

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