いちじしのぎ

生活から一時凌ぎで逃げては文章を書き、また生活に戻る人間の悲喜交交。あるいは、人生の逃避先「山」にまつわる話。

狭間の生活

昼飯に来た。今日の日替わりは焼肉定食。

201701013 Takayama 11

書いておくのだが、仕事始めのノリを作ることに失敗して、生活のテンションが落ちた。部屋で護摩祈祷を流してみたり(パチパチと火の燃える音入り)、善光寺の線香を炊いて部屋を「寺」のようにしてみたり。精神への直接の影響は少ないようで、落ちからのふんばりはみられない。

コーヒーとプロテインのいつもの朝ごはんをベランダに出て、日光を浴びていると少し気分が戻ってくる。

 

なんだろう、ずっと悪いことをしている気がする。ここ6年ぐらい。

昨日読んだ本には「考えると悩むは違う。答えを出せない、悩みの方はクソである」と書かれていて、しっかりクソを被ってしまった。鼻につく匂いはどこか懐かしい。

こう生活が落ちると、みるみる体調が悪くなる。寄る辺のない感覚。海の中に放り出され、ただ波に飲まれている。流れに乗って、どこに辿り着くか。船の一艘でも泳いできてくれればいいのに。低燃費平泳ぎで、とりあえず泳ぐ。

 

こういう時に、嫌に冷静そうで、かつシニカルに状況を言葉にする私がいる。ずっといる。子どものころからいる。給食の配膳を取りに並んでいる時にもいたし、高校の部活帰りでコンビニに寄った時にもいた。

たいがい役に立たない。シニカルな言葉は気休めにもならない。読んで、はぁとため息をついて、それで終わり。これもそのひとつだ。

 

詳しくは手元の日記に書いているから、ここでは200メートルぐらいから眺めた感じで書くけれど、ここ6年ぐらのそれは、ずっと、ある狭間で思い悩んでいることだ。

一度はそこを出たし、狭間を出たあとの清々しさか、寂しさを味わったものの、狭間の方に声をかけられてまた戻ってきたのだ。

狭間には川が流れていて、私はそこで渇きを癒すことができるが、なにせ、日当たりが悪い。加えて、狭間なので、ある2つの勢力がせめぎ合っているのだ。

私はその川上にかかる小さな家に身を寄せていて、ながれる音が一向に消えないのを聞いている。凪のような生活など無縁だ。狭間が静かになったであろう時間に目を瞑り、喧騒によって目を覚ます。低燃費平泳ぎでたどり着いたのは、狭間にある川の上の家だったのか。

 

こうした独りよがりの文章も、実は健康には全く良くない。世にいうヘルスケアの所業では全くないにせよ、自らが生んでしまう毒物と、その付き合い方みたいなのも、広義にはその横文字に含めてほしいと思う。

不健康な狭間の生活を、今年は抜け出るべきなのだろうか。あるいは、勢力のいずれかに根を下ろし、土の上に家を建てるべきか。

よく分からなくなったので、いったん記事を閉じる。あったかくて、うまいものを食え。