いちじしのぎ

生活から一時凌ぎで逃げては文章を書き、また生活に戻る人間の悲喜交交。あるいは、人生の逃避先「山」にまつわる話。

城ヶ崎で

見覚えがある景色だった。

背の低い松の木々の間から覗くのは、林でなくて水面。1年半前の中禅寺湖畔で、みた景色だったが、音が違った。

岸辺に打ちつける水の、さーさーとノイズのような不規則な細い音に、時折鈍く低い音が混ざっている。ここは伊豆半島城ヶ崎海岸、の南側にある海岸沿いの散策路。登山靴が土を踏む音が妙に懐かしい。

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何度もでも思い出すだろうなと悟ったような気がしたことだけを覚えていて、詳しいことは忘れてしまったのだけど、中禅寺湖の湖畔を歩いていた当時は何もかもに色味を感じれなかった。

景色はいつも通りなのに、景色が訴えてこない感じ。大袈裟に聞こえるだろうけれど、世界が私を見放したように感じられた。生きてはいる、ただし、歯車として。そんな感じ。

その後も複数の苦しみを味わったし、転職をしたりして別の意味で苦しいなんてこともあった。

 

こういう時には不用意に感情的になってしまうものだけど、城ヶ崎はそれをさせなかった。

命を授けられ、やがて人生が我が物だと思い知る頃合いから高くて荒い波に晒され、齢と共に侵食されていく。ある物は海に消える。

マグマが固まってできた岩はそうして柱状になり、似たようでそれぞれ違う歪さを得ていく。黙ったままどんどん険しくなる柱のひとつずつに、波がひたすら打ちつけている。音の先にある、削られて形を帯びていく火山によって生まれた岩の群れ。それが時折、人に見えた。

 

未来を考えざるを得なかった。明るいとか暗いとかとは別にある、ただ老いていくだけの私を見る。

人生は本当に一度きりなのかもしれないなあ。荒波を受けてできる名前のない湾曲にしばし立ち寄って、潮風を受けた。