いちじしのぎ

生活から一時凌ぎで逃げては文章を書き、また生活に戻る人間の悲喜交交。あるいは、人生の逃避先「山」にまつわる話。

本を読めなくなっていた話

 

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これは去年の春。家の近くの川沿いで。

ここ1年ぐらいの間、本を読めなくなっていたのが、最近ようやく読めるようになってきた。また読めるようになった、戻ったと言った感覚とは違くて、別の意味で言葉を追えるようになった感覚がある。

書いたものを誰かに読んでもらい、お金をいただいている身からしてけしからんと自分を責めていたのだが、そんな自己問答もそろそろ終わりになるかもしれない。

「天気が荒れますよ」と言われた週末。初日はきれいに予報を覆した。

連日夜10時を過ぎてからしか家に帰れないし、そんなもんだから帰っても仕事のことがどこか頭にあるしの生活だった。あえて薄いカーテンだけ閉めて寝て、朝の光で目が覚めた。

が、アラームがハドリー・フレイザーのJust Let Goだったものだから、二度寝した。「過ぎた機会を憂いでも仕方ないっしょ、そのままでいいぜ」と囁かれようもんなら春眠貪り候、起きたら朝の10時。陽の光はすっかり日中のそれだった。

スーパーで量り売りしていた欠損豆だらけの豆を挽いていい加減に湯を垂らし、ファミリーサイズの豆乳のパックを搾り取るようにぐいとカップに注いでレンジで温め。とりあえず大豆タンパクの朝。窓を開けると、風が抜けて心地よい。

読めない間をどうしていたのかといえば、山に行っていた。

週末となれば山の中に入って写真を撮る生活。後悔なんてものは全くない。山に入ることは楽しいという言葉以上のものを含んでいるし、通算50日ぐらいになったこの1年ぐらいの山行を通して、何より人という存在が、なんというか自我の輪郭を作っていること、色合い、振る舞いにまで影響していること、食事(一緒に麺を啜る愉快さみたいなこと)が、身に沁みた。

山に入ってワイワイ騒いだり、綺麗な景色を見て同じ方向にファインダーを向けたりする瞬間は、また再び体感できないし、言うなれば、脆い。その瞬間しかない。言葉にして収めることはできないと判断してしまっていた。だから読めなくなっていた。

全く無理解だなと恥じるのは、そうした体験は、言葉にすることである意味では別の仕方で、また息を吹き込めるじゃないかと、割とあっさり腑に落ちた。ブコウスキーの本を手に取ったら「タイプライターの音だけ聞こえていればいいんです」との旨を書いているのを見たのも、そうだなと感じた。

体験はそのまま言葉にならないけれど、書いて言葉にしたら、また別の仕方で在ることが可能になる。書くって一旦はそういうこと。それで、本をもう一度読み出せるようになった。

4月もいくつかの山旅を考えている。遠くに行って同じ景色を見たり、感じたり、おいしいものを食べたり。ただ温泉に入りに行くのもいい。今ぐらいの気分だと、それが合っているかも。葉桜の頃の方がいいかな。車を走らせた時の街路樹が美しい季節だから。もうすぐで桜も咲くんだろう。また一段と春の感じが近い。