いちじしのぎ

生活から一時凌ぎで逃げては文章を書き、また生活に戻る人間の悲喜交交。あるいは、人生の逃避先「山」にまつわる話。

長野と山梨に登山遠征した話

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南アルプスの諸相。隔世の感を生み出すのには十分だった

一定期間故郷を離れるのが久しぶりで、胸の高鳴りが止まなかった。複数のSAで車を止め、暖かい飲み物を求めて自販機にコインを入れ込むときに実感する。熱すぎてすぐには飲めない抹茶ラテとかの熱を手に移しながら歩いた駐車場で「長野に来た」と何度も思った。

先週、休みを取って長野と山梨県に登山旅に出かけた。衆院選のお祭り騒ぎの傍らで、あまりにいつも通りで無関心な世間に静かに腹を立てているうち、必要のない言葉に埋め尽くされている感覚に支配されているのが嫌だった。言葉から逃げたかった。

10月中旬以降にまとまった降雪があり、当初予定していた南八ヶ岳方面を諦めたり、先輩と一緒に歩くルートが直前まで決まらなかったりした。だが、楽しんで悩める対象があったことに、いくぶん助けられた。

安曇野ICで降り、中房温泉を目指す。初日は燕岳に登る。駐車場に駐められなければ計画が狂うギャンブルをしなくてはならなかった。賭けには勝った。

衣食住を小さなバックパックに詰めて歩くなんて、ひと昔の自分なら考えもつかなかっただろうなと、幕営地に向かう途中の雪道に思った。本来見えるべき北アルプスの峰は周囲はガスに覆われてしまった。景色が遮断されると一層内省的になり、この後の日程のことを思った。

 

初めて山の上で星を眺め、天の川を目撃した。見えてしまっているという感覚に近かった。うすらぼんやりと赤く帯状になった星の連なりが、遠くの稜線を少しだけ照らした。流れ星も2回みた。

朝焼けに自然と涙がこぼれた。泣けるほど美しかったのではなかった。涙が勝手に出るというやつだった。きれいという言葉が追いつかない。そんなことがあるのかと思った。

山を楽しむために来たつもりだった。当初は。でも違う気がした。景色を見て、下山して、あたたかな湯につかる。一連の行為を可能にしているのは、足元の山だった。楽しむとは何なのか。傲慢すぎるような気がして、よくわからなくなった。

 

樹林帯を抜けると、切り立った岩場が現れた。燕岳を下山た翌日は、南八ヶ岳権現岳へ向かった。途中、鋭利に割れた岩が転がるルートがある。頂から鋭く切り込んで落ちて行く谷底に風が吹いていた。赤岳の方にうっすらと雲がかかっている。

あれほど急な場面を乗り越えてきたのに、山頂にいざつくとそれまでのことを忘れてしまうようだ。権現小屋からの分岐を北に進み、急峻な階段を降りた先にある旭岳。山頂で湯を飲んでいるときには、これから会う人のことを思った。今日は平日だ。普通であれば仕事をしているはずだ。その人とうまく会えるように変えたテント場と、チェックアウトの仕方が折り合わず予約をキャンセルした。昨晩、車中泊のすべを手に入れていたから動じることがなかった。

 

「延命の湯」から上がる湯けむりを眺めた。もうもうと立ち込める湯。昨日入った有明荘の温泉とは異なる泉質だった。下山後、登山口から10分のところにある公衆浴場。集う地元の爺どもを見ては、自分がよそ者であることを思い、安心する。湯を顔に打ち付ける。うっすら塩素の匂いがする。体のほてりを感じながら、顔の汗を拭き取った手ぬぐいを頭に乗せた。

 

だんだんと周囲が明るくなる。車の中で起き出し、靴下とダウンを着る。シュラフに残る体温を逃さないように着替えをさっさと済ます。

車内を出て、背伸びする。まだ薄暗いが、隣の車はエンジンがかかっている。トイレに出るついでに、暖かい飲み物を買う。人を迎えに行く前に、車内を少しだけきれいにする。

 

前を行く人の背中を見つめながら歩く。よく晴れた。時々歌が聞こえてくる。この人と一緒だけど、他人同士。隔たれた存在であるのに、目指している場所は同じ。そのことが不思議に嬉しくて、ほほが緩んだ。道中見えた瑞牆山に驚く声には、混じりけがなかった。

旅の最後は、金峰山瑞牆山を目指した。富士見平小屋にテントを張る。紅葉は見頃を終えて、そろっと葉が落ちてきていた。倒木の両脇には落ち葉が溜まっている。背中を軽くして、金峰山に向かった。

日の当たらない森の中を登る。食べながら進む。当たり前のことを話す。「あと少しですね」「そうだね」。カメラを構えて写真を撮る。よく晴れている。

山頂でコーヒーを飲む。東京の方が見える。山麓に囲まれて空気を隔絶していた旅に終わりを感じる。長野と山梨は、関東と孕んでいる空気感が違った。東京は関東の「てっぺん」で、人を平面的に惹きつける。ここはその力学から自由な気がした。ただ、山を目指せる。遠くに見える南アルプスに感謝した。

 

倒木に腰をかけている人があまりに美しくて小さな声が出た。下山後、日が暮れるまでには時間がある午後3時半。ライトグリーンのテントの前に座っていた女性が静かに本を読んでいた。ページをめくる音だけが響いてくる。上の方では落ち葉が風にかすれる音がする。

上下のダウンを着込んで、コーヒーを作る。女性と同じ倒木に腰掛けて、スマホに入っていた柳宗悦を読んだ。だれでもない職人的な美しさ。名前もしらない人のたたずまいに心が動いた時に、似たようなものを感じた。個性ではない。営みの普遍性。

 

帰り道のコンビニで、さっき駅で降ろした人が山行中に食べていたお菓子を買った。車に入るなりすぐに食べた。人工的な甘さを特別にした登山だった。エンジンを入れ、東を目指した。

SAで頼んだモツ煮定食に納豆が付いていた。当たり前に付いている味噌汁がしみた。高速道路を滑るように帰るだけになってしまった。ヘッドライトをつけて出発した朝を思う。瑞牆山の岩場を超えた脚は、下山後の温泉でいくぶん楽になっていた。

数日が経った。体験の断片が頭の中に渦巻いている。どこを目指すべきなのか。人の思惑を疑ったり、誰かを軽んじたりする環境に戻って来てしまったが、あの数日はそれらと無縁でいられたことに安堵している。

今日、アウトドアショップでもらって来たpatagoniaのカタログの中に、アメリカ人で初めてK2(8,611m)に酸素補給なしで登頂したリック・リッジウェイという人の言葉があった。登頂した時に言い聞かせた。「いつか年老いたら、この瞬間を思い出したくなるはずだ。だからよく覚えていろ、大切なことだから」。年老いても忘れたくはない、大事なものしかなかった。