「仕事と生活はどう切り替えていますか?」
「仕事と生活をなるべく近づけたいと思ったりしますか?」
これ、以前に比べてすっかり考えなくなった。仕事と生活。質問の答えは、端的にはノーだと思う。
以前は、切り替えていたのかもしれない。「休日にやること」みたいなリストを作ったり、おいしいコーヒーを淹れるだのなんだのと決め込んでやっていたことがあった気がするが、あまりよく覚えていない。
今の「仕事」は、働いてお給料をいただく仕組みの上にある。いわゆるサラリーマン。ただ、仕事への当たり方として「ある締め切りまでに120%で返す」というのを、自分に課すようになった。昨年の秋口から。仕事上でそうあるために、生活が支えられるようにしようとの意識も芽生えた。
仕事の上での決断や振る舞いは私生活にどうしたって影響するし、そこをスイッチのオンオフのようにスパッとやれれば楽なんだろうなと思うけど、まあ、それができなかった。苦手だから。
就業中は仕事以外のことを考えるし、休みの日には仕事の心配をすることもある。スイッチ的な思考はそれを許さないだろうけど、考えてしまうのだから仕方ない。向いてねえ。
どうしたかというと、仕事でも生活でも一定程度の制限を加えるようになった。「自由にやってください」のも苦手だ。逆に、何かのリミットがかかっていた方が身を乗り出したくなってしまう。
仕事におけるそれは「事案やプロジェクトごとに時間的な制限を設け、依頼者に対して120で返すこと」。120はその時々によって異なるが、求められている事柄を整理した上で、その質なり量なりを上回るような成果物を返すこと。
生活におけるそれは「品よく、うつくしくあること」。具体的にはスキンケアを怠らないことや、体に優しいものを食べ、冷やさないなどがある。
それらを組み込んで、仕事前後の体をケアする時間を作る。シャンプーの香りを体に蓄えながら、髪をブラシを使って洗うことや、日焼け止めをきちんとクレンジングすることなど。細かいことを、面倒くさいことを、「自分のケア」と思ってやる。
これらは制限として働きながら、自分の「営み」として統合されてくる気がする。120のものを求める精神は生活にも侵入し、よいプロダクトや服を揃えようとし、金銭感覚を改めるよう迫ってくる。
うつくしくあろうとすれば、他人の肌質や目尻からコンディションをある程度読めるようになったり、振る舞いに敏感になれる。
結局、生活と仕事は不可分で、働いて家賃や税金を払う必要がある人にとっては同じものの違う側面なんじゃないのと思ってから、天稟に乗せて「どっちを取りますか」みたいな思考も辞めた。
生きるように働く、じゃないけれど(日本仕事百貨の考え方が好きになれない)、生活も働くも、別に移住して丁寧な暮らしてをしていなくても、不可分な人には不可分でしょと。そう考えるのが楽でいいんじゃない。切羽詰まったら、何考えても切羽詰まるよ。