いちじしのぎ

生活から一時凌ぎで逃げては文章を書き、また生活に戻る人間の悲喜交交。あるいは、人生の逃避先「山」にまつわる話。

ツリー

11月16日。晴れ。

どこに行っても大きなクリスマスツリーを見るようになった。毎年感じるのはハロウィーンの装飾から切り替わるそつなさと、子どもの頃から楽しみだった季節になるなという感慨。取材で入ったホテルのロビーにも中央に大きな1本があって、華やかだった。あと1ヶ月で今年も終わる。

怒涛のような1年で、年始の記憶が5年ぐらい前のようだ。

一発目の山は谷川岳で、その後に木曽駒ヶ岳に行った。その次は入笠山。あれからもう11ヶ月経とうとは。時が流れるのが早いのとは違う。今年は苦しみと慈しみが交互にやってきて、それが濃密だった。

夕ご飯に牛肉を炒める。ぎょうざの餡用に細かく刻まれた野菜が半額になっていて、スープにした。牛丼とそれでいっちょあがり。噛み締めながら食べる。

色恋沙汰で揉め、それによって己がぐわんぐわんに揺さぶられた時に歩いた中禅寺湖を今でも覚えている。全く美しく感じられなかった。岸辺に咲いていた桜が憎らしく、でもその桜は気持ちを汲んでくれそうな気もして、しばらく幹の下で座り込んでいたのも覚えている。5月。風がやや暖かくなった頃だった。

 

今年は住まいの近くの山に出かけず、昨年の比ではないほどにアルプスに出かけた。それが良かったのかどうなのか。体型は代わり、貯金は減りと変わった部分の方が大きい。

楽しみを求めてというよりも、山に出かけていなければならないような焦りがあったのを認めなくてはと思う。「山で気分転換しないとね」と他人は言うが、気分転換なんてものじゃないのだ。日々をどうにもならないところに追いやる環境が、山に違いなかった。気分転換というより、転換を迫られるような環境からの逃げに近かった。

 

山を一緒に歩いてくれる人がおり、心強さを感じた年でもあった。私にはそうした人が必要なのだとも感じた。時間が耕され、そこに芽生える体験やその後の記憶が鮮やかなのがうれしい。

 

雲の平に行ってから以後、焦りから山に行く気がしなくなった。気分転換や環境から逃げるという意志が折れた。山は逃げる時もそうでない時も在るばかりで、私の成熟していなさを思い知ることに疲れた。下山してトンカツを食い、その後の温泉から見上げた山肌が急峻だったのを見上げた時。しばらく山はいいのかもしれないとも感じた。

そうは言っても、今月の始めには連れ立って八経ヶ岳に登った。山を歩くことは憩いである以上の体験を成すのだと改めて知ることになった。帰りにラーメンを求めて彷徨ったのを思い出し、帰りの新幹線で口角が上がったのを覚えている。

自分を呪い続け、過呼吸になりながらも眠りにつく日々があったことを忘れたくはない。残りの日々を過ごしていきたい。クリスマスツリーの華やかさに消されてはならないような出来事がたくさんあった。それを噛み締めるために、また数日遠出をしようと思う。