いちじしのぎ

生活から一時凌ぎで逃げては文章を書き、また生活に戻る人間の悲喜交交。あるいは、人生の逃避先「山」にまつわる話。

関西弁

新しい靴を買った。

東京に引っ越してくる際に、これまで履いていた靴の大半を処分した。新卒で入った会社の給与で買った靴、いくつもの取材先に履いていったサンダルといった面々を靴箱から取り出し、荷造りをしなかった。

30歳の節目にと、それで新しい靴を買った。新卒の時に買った靴を10足は買えるような値段のものを、だ。足入れをした時、「欲しい」が物量を凌駕した。

それから仕事用のプレーントゥとその靴をほぼ交互に履いていたのだが、交互というのに無理が生じ、やめた。

 

届いたのはローファー。黒くて細長い。履き心地はちょうど良かった。これからこいつはどこに私を連れて行ってくれるのだろうか。

 

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小説家、西加奈子の『くもをさがす』を昨日、青山ブックセンターで即買いした。渋谷で開催されている展示をみた帰り道、別の本を買いに立ち寄ったその店で、堂々と平積みされていたのだった。

「カナダで、がんになった」の帯文に、店中の本で頭を殴られたような感じがした。作品が出るのを心待ちにしている作家その人の初めての自分語りを、求めないのは到底無理なことだった。お目当てだった本は西さんの展開ブースの裏側にあり、一緒に買い求めた。

 

関西弁に否応なく惹かれる理由を考える。私の人生に初めてそれがやって来たのは、大学生のころだった。学生寮に入居した同級生が、関西弁を使って日本語を話している。関西弁を話す人が、本当にいる。

今でも、それは別の世界のように感じる。「関西人」との属性がある一定の信憑性を持つように、ある種の人となりを規定するような言語を持っているのを、羨ましいと思う。

北関東の片田舎には、そうした言語は存在しなかった。方言としての訛りはある。ただ、それがメンタリティの一部を担っているように感じたり、プライドのようなものとは連結していないのだ。

関西ではそうではない。大阪なり、神戸なり、それぞれが、おのおのやっていますといった人々の振る舞いに言語が関与していて、強く焦がれる。

 

西さんの著作に出てくるカナダ人の会話が、関西弁だった。そこをある種の違和として捉えてしまうのは、私が関西弁を自分の言葉にできてこなかったことの裏返しだ。良いなと思う。繰り返すが、別の世界のようだ。日本人なのに。

 

関西弁を話す人全員が好きとかではなく(そんなことはありえないし、それは極度のお人よしだから)、ある族としてのプライド的なもの、言葉が出てくるリズム、抑揚を自然と身につけている感じが、腹に落ちているようで、心地よい。

これという理由はない。その全体が好意的だなと感じるし、それは大学で初めて遭遇したその世界に生きる人たちが、結局のところ、魅力的であったからなのだろうなと思う。

嫌いになっていてもおかしくはない。「これだから関西人は」と偏屈になることだってありえたのに、そうはならなかった。

そういう言語で紡がれていく連なりにフィクション性を帯びていくのを感じる。ページを開くのが小気味良い。よい時間でしかない。