いちじしのぎ

生活から一時凌ぎで逃げては文章を書き、また生活に戻る人間の悲喜交交。あるいは、人生の逃避先「山」にまつわる話。

文字は私。

つるっとした画面の上に、滑り込んできたように文字が並ぶ。この背後で働くプログラムは縷々あるのだろうけど、私の目に映るのは平面的なドットの集まりだ。

 

あ、そうか。文字ではないのだ。文字に見えるもの。書かれた文字ではないのであった。平面。

 

ペンを取り、ノートを軽く撫でて紙の膨らみを払い、黒いペン先を出して線を引く。早く書こうとしない。線を伸ばすことを、ペン先から伝わる摩擦をそのままに感覚に入れていく。

私の頭からでていく言葉の、その早さを、チューニングしていく。指先のリズムが正される。ペンは掠れ、持ち手に汗をかいたら、握る部分を反時計回りにズラしていく。

 

わずかに沈んだ紙の上の文字の真ん中に、黒い線を伸ばして、書いた時よりも素早く、そのものを取り消す。取り消し自体も、紙に残る。線を伸ばし、また書き始める。

 

文字や線は、方向と、終点に向かうベクトルを有している。力そのものだ。推進力。私が向かう力は、文字をあたためるその力に、おそらく等しい。

 

テクノロジーの進化でやり取りが加速されていくのが分かる。多くのチャネルが無限に増え、その中で有象無象が優先度を決められないままに動き回る。そこら中で生まれる箱庭に、私の意識を砕いて収めていく。

砕かれた先に、全きの私はいない。常に一部が別々の方に力を持つ。私がそれに耐えられないのは、物理的に引きちぎりられる気がするからだ。取り合いになる。ちぎれたら、みんな泣き喚くくせに。

 

そうはさせないので、私は次元を一つ下げ、元々あった向かう力を取り戻していく。見つめることに慣れ、向かうことが「ただ見ること」になってしまった主体を引き下げる。書くことによって。

 

お気に入りのペンをサッと走らせるときの軽さが、私のフットワーク。何度も繰り返し書き連ねる胆力こそ、私の意地だ。遠くの文字同士に橋をかけ、関係させる。深掘りしたり、浅瀬に呼び戻したりする線を、あくまで大きさの決まっている紙の上で、無尽に走らせる。

手で、ペンで、紙に、書くことによって。向かう力を持ち、ざらつきを持ち、揺らいでしまうが立ちゆく私を、もう一度定義する。文字は私そのもので、書くことができるうちは、私は自分を見失わないで済む。