いちじしのぎ

生活から一時凌ぎで逃げては文章を書き、また生活に戻る人間の悲喜交交。あるいは、人生の逃避先「山」にまつわる話。

松本にて

大雨の匂いがアスファルトから立ち込めている。20時過ぎの松本駅前。ここを歩くのは初めてのことだった。

 

仕事に疲れてしまった。具体的に疲れの要因を挙げて行くのは難しいけれど、朝起きるのはだるく、髭を剃ったり顔を洗ったりするまでにするため息が増えた。

山に向かうために午前2時半にアラームをセットしても、起きられなかった。眠りにつく間際、頼まれた仕事を頼んだ本人から「いい加減仕事を進めてくれ」と催促が来たのが、思ったより負荷になっていたらしかった。

その仕事は面倒で、かつ私に頼まれるほどの余裕は無いのに、そう言った本人はケロッとしているのが、端的に気に食わなかった。関わりを持たなくてはならないのも嫌だった。

アラームを無視して、9時過ぎまで寝た。エアコンの風が体を冷やしていたのが分かる。起き上がるのも面倒で、もう一度寝た。

 

こういう時、どうすればいいのか分からない。暖かい飲みものでも、いかにも健康そうなハーブティーでもない、もっと根本的なものが、この部屋にはない気がした。もっとシンプルで良いのだと。部屋にある本、ケーブル類、洋服も、もっと少なくて良い。

あるいはもっと適当なところに引っ越すべきなのか。ぐるぐると頭が重たくなる。起きて活動を始めたのは、12時を過ぎてからだった。

 

松本行きを決める前に、シャワーを浴びた。最近買ったボディソープの香りが少しばかり気を鎮めた。愛知県に行こう。ふと頭をよぎる。あの神社に詣でたほうがいいのでは?かつて名古屋から2回ほど通ったあの場所へ、もう一度出向くべきなのではないか。

だが、気力は湧いて来なかった。詣でることに気後れする信徒を、あの神様は咎めるだろうかとさらに体が重たくなった。

それからいくばくかして、荷物を詰め、逃げるように部屋を後にした。帰ってやることはたくさん残っている。収納を考え直し、勝手の良い私の部屋を再構築した方が良い気もする。でも、それは今ではない。最低限の荷物を積め、家を出た。

 

軽井沢付近は、また雨が降っていた。ワイパーが忙しく雨水をよかしていくのを眺めた。車内ではポッドキャストを聴いていた。ふと、ある人と一緒に出かけるときは決まってラジオだなあと思った。顔を思い出して、雨に溶かした。その人を慈しむ自信が、今の自分には無いからだった。

多少、人というのは面倒な存在だ。気丈に振る舞うために強がったり、要らぬ場面で自分の信念を通そうとしたりする。

私に余白なり余裕なりがあれば、それらを受け入れることが出来る。だが、有象無象に侵されている今は、たいそうその受容が難しく、私を何らかの側面において凌いだり、優越したり、いなしたりしようとする場面を思い出してしまう。

私にとって、あらゆる場面で好印象の人は存在しない。日陰の部分ばかりを見ていても仕方がないのに、どうしても、暗がりに目がいくしかない時ができてしまう。そうである時に、これまで愛おしいと感じていたはずの思い出があれば、それれがとたんに疑わしくなり、目の前が霧がかってしまうなんてこともあるのだ。困ったことだと思う。

雨は松本に来てからもしばらく続いた。行こうと思った本屋が休みで(Googleでは開店していた)、変なロードバイク乗りに「ここは一方通行ですよ」と絡まれ、余計に遣る瀬無くなり、急いで駅前のホテルを取り、今に至る。

ホテルの熱い湯につかる。たくさん旅を共にした人の不在を覚えながら、独りで、河童橋のタイル絵が描かれた浴室の壁を眺めた。

ホテルの1階はマルゼンが入っていて、本を3冊買った。本屋はいい。外と流れている時間が異なる。

で、しばらく読む時間を取れていない。本を読めるほどに、ページを捲る時間を楽しめるぐらいの、それはベースにあるぐらいの、暮らし方をしたい。

ミニマムで、効率的で、合理的で、シンプルを極める暮らしには、贅沢や、はみ出しが無い。それではダメなのだ。雑多なものを、前述の私のように簡単に放してはいけない。せせこましさにやられていてはダメだ。のびのびと、暮らすのだ。言い切る体力は戻ってきた。明日は、山を歩く。