いちじしのぎ

生活から一時凌ぎで逃げては文章を書き、また生活に戻る人間の悲喜交交。あるいは、人生の逃避先「山」にまつわる話。

ディズニーと失い

昨年末に配信サービスのDisney+で公開されたピクサー映画「ソウルフル・ワールド」のワンシーン。街路樹の楓の種が、ひらひらと舞いながら主人公の手の中に音もなく落ちてくる。人生のワンシーンの重なりが、後に「Sparkle」となり、「いやあ人生の意味なんて考えただけ無駄だし、生きる価値なんてあるの?」というニヒリズムに手を差し出す。

人生の意味とは何かというのを、何かを失ったり、取り返しがつかない状況を自覚したりした時に考えてしまう。つい最近、そうした類の超個人的な出来事があり、今、その考えが頭から離れず、黒い霧のようになっている。そうした矢先、楓の種が思い出された。

ソウルフル・ワールドはあまりに美しい映画で、鑑賞後にしばらく呆然としてしまった。めいそう状態に持ってかれたような「いまここ」感の強さがある。私は、いまここを生きているという感じに、強制的にさせられる感じ。それに精神が追いつかない。映画が持っている美しさは強靱だった。

目標を超えた先にある、しょうもない現実。目標が叶ったのに、その後に訪れた感情はなんだったのだろう。永遠に失われた期待感は、いまさら取り戻すことができないのだと、悟ったジョーがピアノ椅子に座る瞬間が途方もなくリアルだった。

「もうこれ以上は期待できない」というのは、しんどい。ある出来事を知ってしまった前後で、取り返しがつかないと分かった後、自分はどういった態度を取るのがいいのか、未だにわからない。

簡単に気持ちを切り替えられたらいいけれど、例えば、それが自分の青春時代だとか、何か大切な出来事を共有した人だとかに関わる事柄だったら、そうはいかない。簡単ではない時間の積み重ねを、すらっと軽やかにゴミ箱に入れられるわけがない。

では、どうしたらいいのか。映画ではいくつかの回答が差し出されていて、この差し出され方こそが重要なのではと思う。あるメッセージを受け取るには、その受け取り方にめっちゃ左右されるってこないだブログで書いたばっかりなんだけども。

「これ以上は期待できない」というシーンは、そう言えばディズニー映画「マレフィセント2」でも、描かれていた。

期待できない自分を変えたのは、期待していた人が永遠に失われた時という描写。失ったと思った物事Aを、Aの実現を信じているBをまた失うことによって取り戻すといいう複雑な様相を、美し映像で語られる「結婚泥沼劇」で魅せるという離れ業に感激した。ディズニーは、こうした喪失の在り方を、実は繰り返し描いていたのかも知れない。

ディズニーにおける喪失の語り方、捉え方、乗り越え方。せっかく配信サービスに登録したのだし、しばらくは夢の中で、極めて現実的な解決策を模索していくことになりそうだ。黒い霧が、だんだんとパステルみを帯びてきた。