いちじしのぎ

生活から一時凌ぎで逃げては文章を書き、また生活に戻る人間の悲喜交交。あるいは、人生の逃避先「山」にまつわる話。

しんみりしない

帰っている時間が楽しいときが、ずっと記憶に残っている。

「また」と別れて背中を見送り、近くの駐車場から、その人が乗り込んだであろう電車を見送って、近くの自販機で適当な飲み物を買う。

車の中に入って、出先が知らない場所であれば、ナビを「自宅」にセットし、エンジンを入れて、缶なりペットボトルの封を切る。帰りはたいがい、夕方か夜だ。 

あ、やべ。これ書いてたら、しんみりするやつだ。やべ。誰にも言えない風景というのを、個々人は持っている。しんみりはそんな時を思い出す時に顔を出して、過去に目をやらせる。

しんみりすると落ち込むことが多いから、個人的にはあんまりやりたくない。記憶は美しいものだが、しんみりが過去に目をやらせるほどに、磨きがかかってしまう。綺麗だなと思うものが、過剰になるのはあまり好ましく無い。とはいえ、細部まで思い出して「あのとき、あの人はコーラを買ってたんだっけな。俺はペプシ派だから、隣のBOSSの自販機にしたのにな」とか、やるのは悪い気はしないのだけど。

だが、過去に目をやっていると、今のその人が想像できにくくなる感じがある。しばらく会えていない人は、自分もそうだけど、接点から何かしかが変わっている。

気持ちの浮き沈みはもちろん、新しいロマンスが芽生えたり枯れたり、別の趣味を見つけたり、何かを諦めたり。そういう変化があってもなくても、会っていない時間を共有したいのだ。また会えた時に。

で、そうした喜びがあることを「しんみり」によって、なんとはなしに見えにくくなるのが「違うくない?」と言いたいのだ。

ただ、しんみりによって今でも、未来でもない時間帯に頭が飛ぶのは、繰り返すけれど、悪いことではない。今めちゃくちゃやばいという人だっていて、そんな人には、過去にエネルギーの源があれば、そこへたどっていけばいいからだ。

コロナが蔓延してからというもの、会いたい人たちがいる関西の空気を吸えなくなった。最後に東海道新幹線に乗ったのはいつだったかしら。最後に京都に行ったのは。毎年のように行けていた場所が、精神的に遠いままであるのは、しんみりというより、純粋にさみしい。

会えていない人のところに会いに行き、他愛のない会話をするまでに、もしかしたら生活がガラッと変わっているかも知れないし、何も変わっていないかもしれない。

会っていない時間を冷凍保存するわけにもいかないので、人肌らしい感じで、また会えた時にいろいろ聞きたいと思っている。20代も佳境にさしかかる中、そう遠くない未来にそれらが訪れるようにと、感染拡大を告げるテレビを横目に祈るしか無い。