いちじしのぎ

生活から一時凌ぎで逃げては文章を書き、また生活に戻る人間の悲喜交交。あるいは、人生の逃避先「山」にまつわる話。

川崎にて。

 「もうね、家族になってるの。恋人って感じはなくて」。運ばれてきたばかりの生ビールで喉を潤してから、その人は言った。
 どぶくさい匂いが遠くの方から漂ってくるJR川崎駅。入る店を迷ってたどりついたイタ飯屋の席には、サラミとチーズの盛り合わせ、オリーブ、グリーンサラダなんかが並んだ。右では女3人、左では男女4人が盛り上がっている。いずれも20代前半といった形で、声のトーンが高く、浅い響きに感じられた。


 私たちが向かったのは「結婚」と「家族」だった。5年前に結婚したその人は、生活においてさまざまなことを抱え、生きていた。

 昨夏、手に大きな怪我を負ったことから仕事に対する考え方を改め、経済的に自立を志したという。「いろいろあったんだ」。テーブルの料理の間にぼそっと落ちた“いろいろ”は「ボトムから這い上がることができたんだ」といった報告に近かった。
 

 結婚と家族を巡る話は、男を中心に進められた。

 どうして男はこうなのか。「こう」にもまた“いろいろ”が込められていて、多くが無自覚に基づくものに感じられた。「自覚はないと思う」。オリーブを口に含み、きゅっと噛み砕く時に、何度かこの言葉を聞いた。
 

 恋をしている時と、結婚を経た後の関係性が変化するかどうか。外から覗くわけにもいかないこの変化は、本人の口から、とつとつと語られた。左隣の4人は恋人未満の人たちからは感じ得ないような気がした。


 仕事で受けた痛みも話し合った。怒鳴ることによる場所の制圧。相手の言い分に無条件に突きつけられる「No」のサイン。挑戦を無造作に阻むような制圧についても。 

 期待されるような役割をこなして過ごす時間をきちんと拒みたいが、そうもいかない。何かの役割を期待”している”側にとって、拒否を示す私は「存在しない」。グリーンサラダの新鮮な歯応えとは対局にあるような、むにゅっと噛み締められるような痛み。

 その人に限ったことはなく、当たり前に期待されるというのは日常にありふれている。彼女の存在を期待され、ごまかせば「結婚は?」と次の質問がその背後に透けて見える状況には、数え切れないほど出くわしてきた。その度に、いくらか視界のトーンが落ち、目の前の人との距離を確かめた。


 ある時から、そばにいて欲しい人には、生じている距離を引き寄せて「私はこうなんです」と言うようにした。秘密を明け渡すことで、私もそばを離れでいるからねという合図を送るようにした。ビールを片手にその人は「すてきだね。変わらない感じがするよ」と言った。また一つこわばりが取れる感じがした。


 目の前の人と生じている精神的な距離を敏感に察知し、自らが踏み込んでいく領域を的確に設定することに、その人は長けていた。あるときは距離を一気に縮め、きついが必要なことを言うこともできた。

 だからこそ、ある対象に生じている冷感や、興味の無さも感じることができる。それほど器用であるから、生きて行くには難しい。鈍い人は一定数おり(むしろその方がおそらくは多数派で)、応答や発話、態度や視線の強さといった部分に、精神をはらわない。鈍いままでは、気がつけない。やや遅れて届いたピザを分けた。久しぶりに会うお互いを言い直していく作業に、私たちは没頭していた。


 一緒に生きていくしかない人を選ぶことなど、一生かかってもできない。おそらくは、私が状況にあって変容していくしかないのだろう諦めや覚悟を、残りのオペレーターで流し込んだ。腹をくくるというのとは違うけれど、人生を賭け、一人の人間を思うのはいかにして可能なのだろう。


 その人は、人間とは別の注力する対象を2つ作り上げていた。これなら自分だけで、力を注ぐことができるという確信が、両の脚となって、その人を支えていた。幸せだなと感じた。無垢なままで、愛情と時間の両方を捧げることがあるのを確かめることができたからだ。