いちじしのぎ

生活から一時凌ぎで逃げては文章を書き、また生活に戻る人間の悲喜交交。あるいは、人生の逃避先「山」にまつわる話。

いのちのおわりの話

海

ある日、東京堂で海に浮かぶ花輪の写真と目があった。『エンド・オブ・ライフ』。穏やかそうな海のカバー写真。佐々涼子さんの新刊だった。久しぶりの東京遠征で荷物が増えてしまうのを厭わずに、いやむしろ本の場合はそれは喜ばしいことだから、一冊の本を手にレジに並んだ。東京堂のカードは今でも財布に入っている。栃木県に帰っても、ここを目指してしまうからだ。

 


名物の餃子を出す店に入り、首から下げていたカメラをテーブルに置く。とりあえず定食を注文して深緑色の袋から青い本を出す。

 


「命の閉じ方をレッスンする。」

 


『エンジェル・フライト』や『紙つなげ!』で素晴らしい仕事を見せてくれた佐々さんの新刊。

 


ついに来たか、という感じがした。過去の2作で語られた事柄とは様子が違う。佐々さんがあれからずっと沈黙しているような気がしていたからか、ページをめくるのがはばかられた。プロローグを読み、少しして本を閉じた。運ばれて来た餃子をからし醤油で白飯とかきこんだら、撮った写真を確かめて店を出てしまった。

 


あれからしばらく、本は本棚にしまわれることなく、とはいえ読まれることもなく時間が過ぎた。買った本人は神保町から栃木に帰り、己にしばらく絶望し、這いながら方法論を組み立てて何とかしては課題を見つけ、そうした過程にうろたえた。新型コロナウイルスが人に会いに行くのを拒んだ。

 


そんな時、青い海に浮かぶ花輪の写真と、もう一度目があった。仕事に慣れたわけではないけれど、背後につきまとっていた不安の影が春の日に薄らいで、未来への力強い構想を練る気力が芽生えを感じさせる時だった。

 


森山文則という人。200人の患者を看取った人間が、死にゆく姿を追いかける。数々の死が書かれている。人間を海に溶かして行くように、生きる姿を見せていく。佐々さんの母が在宅で最期を迎える様子が断章のように挟まれながら、本は極めて複雑な様相を見せていった。めくる手が止まろうとせず、呼吸は荒くなっていった。

 


読んでいて辛い本がある。これもきっとその類の本だ。なぜなら結果がわかっているから。たった今読んだ言葉は、「」で閉じられたそれを放った当人は、おそらく次のページで、亡くなっている。それまでの生命の有様が、あまりに具体的に書かれているものだから、そうした瞬間を予感するたびに息が乱れていくのだと思う。

 


深く呼吸する。ページをめくっていく。ひとつの診療所に関わっている人間の行為や思考は、大自然を前に唖然とするように、とてもかなわないものを前にしているような感覚で向き合うほかない。

 


人は葉桜のころに逝く。死にゆく時間を選ぶ。

 


自分の祖父のときもそうだったのだろうか。苦しそうな呼吸を繰り返すばかりだった祖父の足をマッサージして帰った晩、たしか早朝のころだった。次の日の朝に母から「5時ごろに息を引き取った」とだけ聞いた。

 


生きる意味を見出せず、自分で自分の命に手をかけてしまった人もいた。すごく近くにいた。お彼岸の季節と夏、母と掃除に行ったときに、ついでにお世話になった人にも線香をやる。その人にはよく怒られた。ビールが好きだった。いつもエビスビールが置いてある。「バカなことをして」。決まり文句のように母は線香の煙と一緒に墓標を見上げる。

 


信じるものにすがり、食べるものにすがり、がんという病気を前向きに捉え、恐怖を遠ざけようしても、それはやってくる。死の支度を淡々と進められる人もいるし、そうでない人もいる。在宅だからどっち、というわけでもない。私を含めた息子たちを「残される人たち」として語り出した父は、もうすでに死支度をはじめているのだろうか。

 


カーテンコールのなかの森山の葬儀で、この本も同時に幕を閉じた。「患者は舞台の主役」。看取師はその脇役で、森山は最後には主役になった。終演後のあいさつは無い。そこは空席であり続ける場所だからだ。在宅医療の本の共同執筆はこの本に身を結び、森山が逝ってさらに一年後の自分に流れて来た。

 


生きることに積極的になれない日々もあるが、そのとき死を思っているのかと聞かれれば、そうではない。もっと心地よく、言うなれば「自分らしく生きる」ことを求めてくすぶっている状態。そんな時には意味もなく身体がかゆくなったりする。痛みが生の証左であるように、人は皮膚に傷をつける。かゆくてたまらない。それで眠れない。森山もそう書いていた。

 


歯がゆくてたまらないときに、こうして違う人生における「死の有様」を見せる本との出合いは、幸福という言葉で語るほかないと思う。誰かの死を抑制的に見つめ、記録し、縁もゆかりもない人々に「読書」させる。いったい何がその状態を果たしているのか。神さまの仕業、とでも言うべきか。篠崎の妻の一言がよぎってしまう。

 


葉桜が散るころに、よい人生だった、と一言呟いて意識を失いたい。可能なら、そのときに自分を知る人に何かを残したい、いやその準備を終えていたい。少なくとも両親の側でそれをやる時には「あとはまかせて」とガッツボーズをしてみせたい。森山から「頼みます」と言われるように。

 

語りつくせぬ情景をもたらす本だ。実家、大学、仕事の、数々の瑞々しい場面が思い浮かんだ。人の死に様は生き様で語られる。うつくしい本だった。